日月神示(ひふみ神示、ひつく神示とも呼ばれる)とは元々、大本に入信していた画家の岡本天明氏が、自動書記によって書き記した神示と言われ、元々の発祥は昭和19年4月18日に、岡本氏が審神を勤めたフーチ(中国に伝わるT字型の機具を、二人で持ち、降霊後にそのT字の棒を使って下の砂に、文字を書き表すもの)を使う、実験会まで溯る。この実験会では、下に敷いた砂に「ひつく」或いは「天之日月神」といった神名がでるのみで、その他の成果は見られなかった。
しかしこの実験会の後に、参加者の一人が千葉県印旛群公津村台方の麻賀多神社の末社に「天之日津久神社」というのがあるのを発見し、天明氏に連絡してきた。
一方の天明氏は「酒を飲ましてやる」という別の友人との約束があった為に、奇遇にも千葉方面への乗車切符を購入していた(この当時は切符一つ買うのに、2日もかかったらしい)
しかし急に先方が都合が悪い、という事でキャンセルされてしまったのだが、丁度その行き先の近所に天之日津久神社があるのが判り、とにかく降霊会での御礼がてら、その神社まで詣でてみる事にした。
当日、実際に着いて休憩を取って居ると、そこで神懸かり状態となり、生業が画家のため持参していた絵筆を使い、紙に意味の解らないものを書き殴ったのが、最初といわれている。
この神示は、殆どが漢数字と神代文字と呼ばれる文字群、記号等で、通常の文字は少ない(後半になるほど、この傾向が顕著になってゆく)特殊なもので、現代でも尚一般に市販されているものは、第一仮約となっている程解読が難しい。
厳密にはこの原文を”日月神示”と呼び、人間の判る言葉に訳したものを”ひふみ神示”と呼ぶ。
因みにスエーデン・ボルグという人物が霊界を探訪した手記『霊界からの手記』によると「天界のより上層からなる天人・天使達の使う文字には、数字が多かった」と記録されている(これが本当かどうかは分からないが)
話しは変って、岡本天明(本名信之)氏は、明治30年(1897年)12月4日岡山県倉敷市玉島に産まれた。生まれつき霊感が強い方だった様で、少年の頃から、祖父(儀藤太)とは違う、もう一人の髭の長い老人が見えていたようだ。ここら辺りのエピソードは、何やら王仁三郎氏を彷彿とさせる。
また金光中学を中退した頃には、個展を開くほど絵の才能が開花し、天才少年と騒がれた事もあったという。しかし信之氏が17歳の頃には、韓国で商売をしていた父親の事業が失敗し、家屋敷、田畑も総て人手に渡る事となった。
まもなく明治大学に入った信之氏は、金策に困り、北海道の炭坑、いわゆるタコ部屋に入った事もあったらしい(自分で怪我をして、脱出した)大正9年の頃には、母親の実家の在る、神戸へ戻る事となり、この頃から「玉島の夜明けの人たらん」
として天明を名乗るように成った。
ちょうどその頃、近所に大本信者の一家がおり、その家の少年に誘われて、大本の公演に連れて行かれる事となった。
そこでの内容は、たまたま色彩に関するものであったらしく、それが非常に天明氏の興味を引き立てたようだ。この事がキッカケになり、大本に入信する運びとなった。 この大本での活動の初期から、高見元男氏(後の出口日出麻呂氏)とは同郷で同年同月産まれという事もあり、高見氏が京大生の頃から仲が良かったらしい。
その後天明氏は大本が買収した大正日々新聞社で美術記者として働くようになる。この頃に当時社長であった浅野和三郎(日本に初めて海外のスピリチュアリズムを紹介した人物)氏の号令で、鎮魂帰神法などを習得したり、雨を降らせたり、紛失物を探査したり等していたらしく、最初は天明氏も、面白くて止められなかったものの、徐々にそういった事に嫌気が差してきた様だ。
翌年には大本の第一次弾圧事件が発生する。その事件後に天明氏は退職し、名古屋第一新聞社の社会部長、金沢の北国夕刊新聞の編集顧問を勤めるなどをしていたらしい。
大本も東京へ侵出という事になった頃(1921年)には、人類愛善新聞を発行する事になり、日出麻呂氏は部下に「社長には機密費があるんだろ、その中から岡本君が言うだけ給料を出せ、わしは岡本君の面倒を一生見るんだから」と命じ、天明氏に特別に給料をだして、編集担当になって貰う事になった。
ここでの編集作業は、王仁三郎氏が話しの骨子だけを天明氏に語り、後の文章は天明氏に任されていた様だ。ところが不思議にも必要な字数一杯で書き終わる事が多かったらしい。そうして人類愛染新聞の編集をする仕事を続けていたところ、用があって警察に行く事があった。
するとそこの顔見知りの人物が「岡本君ちょっと2~3日東京を離れていてくれ」と言う。たまたま地方へ行く出張の用事もあったため、そのまま出張に出た。しかし帰って来てみると、第2次大本弾圧が発生しており、主要人物は皆投獄されていた所であった。
天明氏は内部で唯一給料を貰っていたため、信者とは見なされず逮捕を免れた。そのために大本内部からはスパイの容疑も掛けられた事もあったらしい。
第二次大本弾圧によって人類愛善新聞も廃刊となり、再び職を失した天明氏は、一時東京の代々木八幡神社の留守神主となり、そこの神主の平岩氏(ドラマ作家として有名な平岩弓枝女史の実父)と共に言霊を学んだりしており、その平岩氏の紹介で千駄ヶ谷の鳩の森八幡の神主が出征したため、代わりをしないかと持ち掛けられて氏子総代の高井是空氏が、給料の足らない分を補足するという事で、天明氏は神主を引き受けるようになった。
昭和19年4月8日、この高井是空氏が、押し入れから「国宝みろく菩薩半迦像」を持ち出して来て、二階に奉る事となり、この座敷で「修史協翼会」が開催される事となり、これが上記のフーチの実演会を開き「ひつき神」という件の神名がでるキッカケとなるのであった。
しかし、霊現象を好まなくなっていた天明氏は低級霊だろうと考え、殆ど出るに任せて放っておいたらしいが、同じ留守神主の法元という人物が、きちんと揃えていた為に散逸を免れた。
その頃王仁三郎の影の参謀と呼ばれた矢野祐太郎の夫人(矢野シン)が、ある日千駄ヶ谷の友人の会合に出席した折り、突然床の間に進み出て
「八大竜王、しばしこの森に鎮まりましますー」
と言ってしまい、その自分の発した言葉に驚き、会合が終わってから暫く辺りを散策する事にした。
シン女史が
「森はこの辺りにあるだろうか?」
と探してみた所、「鳩の森八幡」を探し当て
「ああ、ここか」
と思い、中に入っていくと、社務所の中にかねてから顔見知りの天明氏が神主姿でいるではないか、シンは驚いて
「天明さん、どうして此処にいなさるの?」
と尋ねてみた。すると天明氏は一通り事情を話した後
「いやぁ最近ふでが出てね」
と神示を見せると、シン女史は顔色を変え
「これは太神様の御真筆ですよ」
と答えた。この後、シン女史の説得で「一二神奉賛会」「一二神示拝読会」が誕生する事となった。又解読にもシン女史自らが加わることとなった。
唯一公的(?)な試験を受けた日月神示 日月神示自体は、漢数字や神代文字が多く使われると紹介しましたが、一例を挙げると次の様なものです。
なんだ、これではただの語呂合わせじゃないか、とも思えますが、これは最初に現れたもので比較的分かりやすいものです。(前節「数字で書かれた神示を参照」)また赤字の部分はよくみると十・九・八・七・六…と数字が順に並んでいるのがわかります。たまにこういった洒落っ気のようなものも出てきます。 ご多聞に漏れず矛盾の多い神示 これまで出口王仁三郎氏等の行動が疑問に思えたり、出口直女史・王仁三郎氏双方が善にも見え、又ある時は悪にも見えるという、不可解な事が多いと書きましたが、この日月神示もまた矛盾点と思えるものが見受けられます。
実はここにこそ、日月神示や王仁三郎氏の持つ不可解さを知る鍵があるかも知れません。全てをインチキ、偽物とするのも間違い、全てを信じて盲目的に受け入れるのも又間違いということです。
|