民主主義

民主主義にういてて

 通常、我々は民主主義を素晴らしい、文字どおりの民主主体の社会システムだと、そう考えています。
 日本の政治機構は、徳川幕府の3百年に及ぶ歴史に見られるように、永らく統治者の末裔が引き継ぐという形式を採ってきました。

 国交が開かれた時、日本には外国の『大統領』を表現する言葉がなく、散々考えた結果、最も近い存在として、大工でも一等の働き頭、「棟梁」制か ら、国を治める意味で「大」を付け加え「大統領」になったのだと言います。

 しかし大本の神諭でも、日月神示などでも、人間の作り出した『民主主義』も『社会主義』も、批判的です。この点に関しては西洋のスピリチュアリズムには 余り見受けられません。
 (政治・経済・教育・科学・哲学云々と、人間は何でも分類したがりますが、総てを一つのものとして捉える傾向が、洋の東西を問わず共通している点です)

 何故否定的なのかと言えば、分かり易く言えば、今の人間は九分九厘までは、盲(めくら)同様の者ばかりだ から、その盲同士が集まって幾ら選挙をしても、選び出されるのは、より一層輪をかけたような盲である。というものです。
 最近ではこの様な欠陥を、衆愚政治として否定的に見る向きも出てきましたが、さりとてこれに替わる制度が見つかる訳でもなく現状のままという状況です。

日月神示

●メクラの人民がいくら集って相談すればとて、す ればする程ヤミとなるのぢや、行詰ってあげもおろしも出来んことになるのぢやぞ、総てを数だけで決めようとするから 悪平等となるのぢや、メクラをいくら並べてみても何もならん、早う改心せよ、新しきタマの選挙があるでないか

●人民は選挙と申すマヤクに酔っているぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかゝる から、悪魔に魅入られているから判らんことになるぞ。 世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立 体の数に入れよ

 その国の国民の資質が高ければ、その代表たる人物のレベルも平均的に高い筈です。
 政治の世界で汚職や情報の隠ぺいやその他諸々の事件が起きる事がありますが、同じ様なことは社会でも起きています。

 日月神示にはよく「立体」「平面」という言葉が出てきます。平面は社会の気であり、立体は霊的な世界・気・神等を表している様です。
 ストレートに解釈すると、霊性の高い人物を選ぶという事になりそうですが、これは実際、次元の違う世界(霊界)に於いてはそうなっている事を窺わせる記 述が『ベールの彼方の生活/G.V.OWEN』等に見受けられます。

 もっとも、普通の人間に第三者の霊性がどうなのか、自分の事すらよく分からない状況という所で、より人間性の高い人物を選ぶというのが現実的な所 でしょうが、それすらも余り分からず、取り合えず政党やその時の社会の風で選ぶというのが実情です。

シオンの議定書について

大本神諭

●日本の人民が皆邪神界の政治のやり方で、末代世が続くやうに惚 れ込みてしもうて居るなれど、十年先を見てござれよ、邪神界の悪のやり方は化けの皮をはいで見せてやるぞよ

 大本神諭等に、イシヤの仕組みや外国の政治の批判などが散見されますが、この筆先がでて9年後に世界中を震撼させた『シオンの議定書』(或いはユ ダヤ・プロトコル)が発見され、それが周りまわって日本の当局にも、やって来る事となりました。

 この発端というのが、矢野祐太郎氏が艦政本部に勤めていた大正2年5月3日に、或る特務任務をおびて、大使館付き武官として英国へ出張しましたが、そこでスパイとしての活動を開始します。
 スコットランドの造船所で英国海軍が極秘に建造している異形マストの軍艦構造を探索する一方で、世界的な秘密結社の本部に潜入し、そこで『日本包囲伏滅作戦』という重大情報を手に入れるのです。

 この資料がシオン議定書ではないかと考えられています。大本ではこの議定書を指して『マッソンの仕組み』等と呼ぶ ようになったのですが、入手の経緯などは詳しく語られていません。以下はそのシオンの議定書からの抜粋です。

・「善良な性質の人間よりは、先天的不良性の人間の方が、数にお いて勝っているので、学理上の議論に よるよりは、強制的威嚇を用いた方が、はるかに政治上の好結果を挙げるものである。」

・「尚我々は、大衆の力は盲目で、非理知的で、判断力が無く、従って左にも右にも耳を傾けるものである事に注目しなくてはならない。盲人が盲人達の案内役 を勤める時、必ずや共に滅亡の淵に陥ってし まう。
 従って大衆の中の者ども、または人民の中からの成り上がり者は、如何に多才の者であろうとも、政治上の知識を持たぬ故に、ひとたび指導者として登場する 時 には、必ずや全国民を滅亡の淵に陥れないではおかぬのである。」

・「我々が自由・平等・四海同胞なる語を民間に放ったのは既に古代の事である。それ以来、これらの標語は、無意識のオウム返しによって何度と無く復習さ れ、世界の幸福と、個人の真の自由を破壊した。
 いわゆる賢明なる非ユダヤ人の識者と言われる人々でさえも、難解な謎の如きこの言葉の抽象なる意味を正しく理解し得る事が出来なかったし、またその内部 に 含まれている矛盾を勿論看破する事が出来なかった。
 自由がもし敬 神を根拠とし、天地の法則に背反した平等の観念を去った同胞主義に立脚する時は、国民の幸福を阻害する事なく、国家組織の中に無害なるも のとして存在する事ができる。
 かくの如き宗教と信仰を持っている時は、国民が地上における神の摂理に従い、教会に統御せられ、謙遜、従順に、精神的慈父たる牧師の指導に従うものであ る。それであるから我々は、宗教の根底を覆し、非ユダヤ人の脳裏から神霊の観念を奪い取り、その代わりに個人主義的打算的利欲と、肉体的享楽主義的要求と を植え付けねばならぬ。
 彼らは悲しい事に、自然なるものが平等を知ら ず、またその中に自由が有り得ないものであり、自然そのものが、理性と性格と、才能と不平等を、その自然の 法則として造ったものである事に気付かなかった」

-『シオンの議定書』-

 ここで非常に不自然な感じを受けるのは、「自由がもし敬神を根拠とし、天地の法則に背反した平等 の概念云々・・・」と答えらしきものが書かれている事で す。(シオンの議定書と言えば悪名が高いですが、究極的には何かの意味があって出されたという可能性も考えられます)
 取り合えず神示にはこのような議定書とは反対の記述が見受けられます。

伊都能売神諭

●自由とか平等とか申す事は、一寸聞けば誠に結構なやり方 の様であるが、日本のご先祖の道を外れてほかに自由も平和もくるものでないぞよ。

●艮の金神大国常立尊が、明治二五年から変性男子の御魂の宿りておる出口直の手と口とで、永らく知らした事の実地が現はれて来たぞよ。今になりてからは何 程日本の守護神が焦りたとて、もう上げも下ろしもならんところまで世が迫まりて来たから、何程守護神人民が地団太踏みたとて、到底人民の力ではニジリとも 出来ぬから、この上は神力に頼るより外に道はないから、世に出て居れる方の日本の守護神早く御魂を磨いて、この結構な先祖から続いた国を守護致さぬと、今 度やり損うたら、万劫末代取り返しのならん事になりて、世界は石屋(いしや:フリーメーソン)の自由にしてしまわれるぞよ

日月神示

●平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ。天地をよくみ よ。人民の申す如き平等も公平も無いであろうがな。一寸伸びる草もあれば一尺伸びる草もあるぞ。一寸には一寸が、一尺の草 は一尺が頂点であるぞ。これが公平であり平等と申すもの

●統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点のゝでくくる所に統一 あるぞ。
 くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等は悪平等。一色で あってはならんのう。

●平等愛とは、差別愛のことぞ。公平といふ声に騙されるなよ。数で決めるなと申してあらうがな。群集心理とは一時的の邪霊の憑きものぞ。

●日本は日本、唐は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢや。分けへだてするのは神の心でないと申す人民沢山あるが、世界は一平ぢやと申 して、同じことぢや、同じ神の子ぢやと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであつて同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸 つぶれのたくらみぞ。この道理よう心得なされよ。

 殊に日本に於いては、戦後共産主義の風が興りました。古い小説等にも当時の社会情勢を描いたものがあり、革命の声がよく聞かれたようです。「北朝鮮は地 上の楽園」と盛んに喧伝されていたのもこの時代で、日本赤軍という今でいう武装テロ組織をも好意的に捉える向きがあったようで、どうも日本人は極端に走る 傾向があるのかも知れません。

 その為であるのか、日本人は差別や平等という言葉に弱く、また免罪符的な側面もあります。
 しかし、日本で言う平等の概念は、伸びる人物の芽を抜いてしまうような事が多く、最近になって悪平等についての議論が交わされる様になってきました。

 スピリチュアリズム的に考えると、例えば過去三回の人生で音楽家として生きた人物が、再びこの世に転生して音楽家を目指した時に、同じ音楽教室 に通う他の生徒に比べて、能力が高い事が考えられます。

 この能力を摘むような事をしては、一度の人生で50年間演奏に打ち込み、大家と呼ばれるようになった人物と、同じ演奏家の道に入門したての新人と 同列に扱うようなもので、逆差別 になるのです。
 一寸伸びる草もあれば、一尺伸びる草もあるというのは、こういった事柄をさしているのでは無いかと思います。

 また見極めは難しいことですが、何事も数値で計ってしまうと、駆け足の遅い生徒が全力を出した駆け足の方が、早い生徒の七割の力の走行より成績が 悪いという事も起こりえます。

 いずれにしても、人間何らかの欠陥がある為に地上に産まれてくると考えられています。
 その時までに経てきた経験によって、ある部分は平均値より欠け、またある部分は突出し、という凸凹しているのが普通で、それが個性ともなっています。
 ちなみに、そう考えると前述した神示の「体験こそ財産」という言葉もリアリティが 出てきます。

 うまい具合に、理数系の人物や文系の人物に偏ることなく、何時の時代も分散して産まれていますから、それぞれの資質を活かして社会に貢献する事も 可能です。そういった個々の個性を摘み取ってしまうのが悪平等と言えるでしょう。

別次元での政治はどうなっているのか


日月神示

●各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によっ て、一つの家族的小集団が自らにして出来上がっている。そしてまた、各々の集団の中心には、 その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座を取り囲み運営されている。
 もしそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。そして、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神(かん ながら)の流れ、即ち歓喜によって自ら定まるのである。

●今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、 @(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくら でも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄 になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな。
 取り上げたもの何にもならんのぢゃ、ささげられたものだけがまことじゃ、乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでない ぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、 働かん者食ふべからずと申す事理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてや れよ、何もかも与へぱなし ぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ。
 やって見なされ、人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、この方の申す様にやって見なされ、お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見 なされ、お上も余るのぢゃ、此の道理判りたか。仕事させて呉れと申して、人民喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ、皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるの ぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民元の姿あらはれるぞ。むさぶると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、そろばん捨てよ、人 民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。

●天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に与える政治として現れる。天国は限り なき団体によって形成されている。そして、その政治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。 ・・・(中略)・・・  また統治者自身は、自分達を他の者より大とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ず喜び、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体 の中心となり、団体の歓喜となるのである。

 確かに、日の光に食物…と与え放しと言えますが、お金というのは一種の引換券みたいなものなので、それが紙幣であるか、何かしらの記録簿であるか、理屈 の上ではお金を使わない方法もあるかも知れませんが、意識的には余程のパラダイムシフトが無い限りは難しいと思います。

別次元ではどうなっているか - 政教一致

 実は冒頭で少し述べたように、霊界に於いては何事もシンプルに統一する方向で、総てのものは真理の側面である為に、政治・宗教・科学・・・と分類分けは しません。
 従って、政治と宗教が分離されたものではないのです。地上での常識と真反対という 訳ですが、これ迄の人類史上、為政者が宗教を利用する等の、様々な弊害が見られた為でしょう。

 しかし、そもそもの言葉の定義が違っていて、地上で言う宗教とは特別な衣装を着て、決まった時間や日にちに儀式を執り行ったり、経典や祈りを唱え たりといった行事が宗教であるかの様な捉えられ方をしています。

 それに対して、霊界に於いては何かの教義や宗派がある訳ではなく、自分を他の為に活かす奉 仕の精神・サービスの事を指すのです。
 力ある者は無き者に、富める者は貧しき者に、知識のある者は無き者にと、それぞれの資質に合わせて相互に補助し合う事を宗教と捉えています。

 つまり、政治に於いては力を社会に活かし、学者であれば専門の智を活かし、芸術が得意な者はその技量で美を活かし、というように、政教一致である と同時に科教一致 でもあり、芸教一致でもあり、総ては一つに統一されている訳です。
 人間本来の喜びは、自己の能力を他の為に活かす、他人の為に生きるところにあり、その喜びに向かって進めばよいということです。

 もしかしたら、上記神示の「磁石が北に向くよう、総て一点に向 かうこ とであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。」というのは、こういった意味が含まれてい るかも知れません。

日月神示

●神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあ らうがな。政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。神の臣民、魂と肉体の別ないと申してあること分からぬか

●神の国には、政治も経済も軍事もないのざぞ、まつりがあるだけざぞ。まつらふことによって何もかもうれしうれしになるのざぞ。これは政治ぞ、これは経済 ぞと申してゐるから「鰻つかみ」になるの ぞ、分ければ分けるほど分からなくなって手におへぬことになるぞ。

シルバーバーチの霊訓

・やがて新しい民族が台頭する。その民族は一切の政治も宗教も科学 も、ただ一なるものの各部分である事を認める。その日には、苦しみも涙も嘆きも災いも消え失せ、地上は唯、微笑みと幸福の国と変るだ ろう。

・人に奉仕することをしないで、どうやって神に仕えることができようか。地上世界は用語とか名前とかレッテルとかを気にする。私は一言で、これを奉仕と いう。皆さんはこれを、政治学とか経済学とか社会学とかいう。だが、これは単 に表現の相違に過ぎない。

 よく、官僚の世界であるとか、公務員の世界は幾らでも税金を投入できるし、生活は保障されて安泰だから、リスクを持って工夫と努力で稼ぐ民間より もサービス精神が足らない、と言われますが、これは社会システムとしての共産主義も同じことだと思います。

 これはモチベーションの元となる金銭が絡むか絡まないかの違いで、仮に上記の様に金銭ではない別のモチベーションを上げるキッカケとなるものがあれば、 たとえ共産主義でも上手く行くかも知れません。

 また、インターネットの話を前述しましたが、新しいテクノロジーが出ると、新しい犯罪が起きてきます。
 それに対して、専門家が対応にあたりますが、政界の汚職であれ、財界の汚職であれ、教育分野の問題であれ、その根底にあるのは、”拝金主義・唯物主義” ということが、多くの場合言えるでしょう。

 神示にある様に、ものごとを細分化・カテゴライズして、それぞれの分野毎に規制してみたり、または規制緩和してみたり、罰則を設けて見たりと、色 々やっても難題が複雑化するばかりで、根本の「拝金主義」を無くす方がより効率的なのは確かかも知れません。

別次元ではどうなっているか - 社会機構

 官僚行政はある意味で江戸時代に始まったと言えますが、大岡越前守の様に、官職に守(かみ)という存在があ るのも面白いですが、当時武家は尊敬される存在でもありました。汚職というものも現代とは比較に成らない程少ないのです。

 これは余談ですが、資本主義・民主主義も共産主義もユダヤ人が発明したと言われていますが、当のユダヤ人の考える理想とは何だったのでしょう。

・かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大き な思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。

 「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在する は ずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」
 ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制 の ことである。

 ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。
 しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今 度は私の方が驚かさ れた。

-『日本人に謝りたい』モルデカイ・モーゼ著:日新報道より-

 上記は、戦時中にルーズベルト大統領のブレーンとして日本を研究し、戦後のGHQ政策にも加わったという、モルデカイ・モーゼという人物の著作です。王 仁三郎氏は日本の国体をよく大家族主義と呼んでいましたが、霊界に於いては、どうも 其々にコミュニティがあり、中心に霊性の高い人物が居り、またその階層全体を収める人物が居て、必ず上の階層(霊格の高い)人物が担当しているようです。

 ルソーの言う理想とは、日本のそれに似ているし、霊界の様相とも似ている印象があります。
 神示には「人を神として拝めば神になる」という記述がありますが、もしかすれば天 皇陛下を神としていたのが功を奏したのかも知れません。

 政教一致や天皇陛下を神と言ったり、人によっては泡を吹いて卒倒しそうな発言のオンパレードですが、代々世継ぎに「何をやっても許される」みたい な育ち方をされるより遥かにマシでは無いかと思います。
 冒頭にある通りに、神に近い(神心)人物程、個としての自分が薄くなって行くと述べましたが、私(わたくし)の無い天皇陛下の概念というのは、極めて似 ている存在です。地上を現世(うつしよ)と表現する事がありますが、よく霊界の実情を映しているのではないか?という気がします。 



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