日本産のスピリチュアリズムの歴史(及び伝達者)の紹介を、簡単にご紹介します。
黒住宗忠 (1780~1850) |
岡山の今村宮の司官宗忠氏は、両親の突然の死により、自らも大
病を患う様になった。しかし心を陽気に向ければ治ると考え、陽気になる
ように心がけ、次第に病気も回復に向かっていった、そ
して文化 11年(1814年、当時 35歳)の時「天命直受」という啓示を受けるようになる。 その時より病気治し等が出来るようになった宗忠は、黒住教を起こし、概要として天照大神を万物創造の神とし、人間は総て天照大神の「分霊」を頂いていると 説いた。 |
中山みき (1798~1887) |
大和国山辺群屋敷村(現奈良県天 理市三島町)の比較的裕福な農家だった、中山善兵衛の妻、みき氏が天保 9年(1838)10月26日、突如神懸かり状態となる。これがキッカケとなり、天理教を開教する。その後には、財産を貧しい人々に分け与えてしまい、極 貧の生活となっていく。
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川手文次郎 (1814~1883) |
安政6年(1859)備中国(現
岡山県)浅口群占見村の農民、文次郎氏は42歳の時に、扁桃
腺炎にかかり一時医者もも見離す重体となった。その為親類一同が集まり、平癒祈願を行った際、四国石槌(いしづち)山修験から来た親類に石槌神が懸かり、
文次郎が先年自宅の移転をしたさい、金神に対して無礼を働いた為と説明。 2年後に、実弟の香取繁右衛門(かんどりしげえもん)氏が、嫁の実家(亀山村)で突然神懸かり状態になり、文次郎氏がかけつけると「金神様御乗移り」と口走り、文次郎氏に金神を奉る宮の寄付を求めた。 更に2年後(安政6年10月21日)「世間になんぼも難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれ、神も助かり氏子も立ち行く」と言われ、この時を堺に(文次郎氏46歳)金神
教の開教に至る。 |
金神教は、祟り神と一般に恐れられている陰陽道の歴神(金神)を、「天地金の神」という新しい神名 に変 え、民衆を救う実は慈悲深い神様と説いた。因みに、後の大本を開教する「出口直」女史も、この金神教の信者であった。
これら既成宗教は、総て天啓教(何かしらの天啓によって誕生した宗教)と目されていて、中でも天理・金教などは、地名になるほど、その勢力 も並々ならぬものが在ったことを窺わせる。
そして、その後に艮の金神と名乗る存在が、突如綾部の片田舎に住む老婆に神
懸かりをするようになった。その艮の金神は以下の様な主張を始める。
●「天理、金教、黒
住、妙霊先走り、艮の金神の世になりたぞよ」(大本神諭』/出口直)
つまり、それまでの天理、金教、黒住等の教会は、先駆的なものであり、これから本格的な活動を開始するのだと主張したのである。
おりしも、エマニュエル・スエーデンボルグ (学者・政治家 1688~1772)という人物は、西
洋に於いてはある意味でスピリチュアリズム運動が勃興する前
の、先駆的な存在感を示していたが、自身の幽体離脱体験を通じて天界の天使と語ったとされる文書には、今のキリスト教社会(西洋社会)には余り期待はしてお
らず、神による新しい教会の設立は、キリスト教世界から遠く離れた国に最も期待を寄せていると
いう天使の会話録が記されている。
その最も遠い国が日本を指しているかは定かではない。しかしスエーデンボルグの説く教義に心酔していたロ一レンス・オリファント (イギリス外交官1829~1888) は日本人には世界史的にある使命を帯びていると信じ、知人であるトーマス・レーク・ハリス(牧師 1823~1906)もまた、神による王国の建設は日本が最も相応しいと、期待を寄せていた。