神示と預言1

預言の解釈

  先ずは預言の解釈についてですが、預言に限らず啓示の類は霊的・象徴的に解釈する必要があります。

出口王仁三郎

・たとへ神諭に天地が覆へると示してあつても、泥海になるとあつても、人間が三分になると示されてあつても、目眩(めまひ)が来るとあつても、決して之を文字そのままに解すべきものでない。 すべて内義的、神界的、心霊的に解すべきものである。さうでなくては、かへつて天下に大なる害毒を流布し、神慮を悩ませ奉ることになるものであることを承知せなくてならぬと思ふ。

-『霊界物語』-

 また、かつてもあった事ですが、神示の預言的部分にばかり人の注目が集まり、するとその預言の来る時期は何時になるか?ということが焦点となり、大正 10年に大峠が来る、などの説が浮上し、大きく喧伝したことが弾圧の切っ掛けともなっており、こうした騒ぎについても、以下のように警告しています。

日月神示

●富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。

●神の申すこと違ったではないかと申す臣民も今に出てくるぞ。神は大難を小難にまつりかえているのに判らんか。えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること判らんか。 ひどいこと出て来ること待ちているのは邪の身魂ぞ。 そんなことで神の臣民とは申されんぞ。臣民は神に、悪いことは小さくしてくれと毎日お願いするのが務めであるぞ。

出口王仁三郎

・役員信者諸氏の中には、大建替で大変な天変地異が起こるとか、 大正十一年には天地がヒックリ返るとかいふやうな事を現実にあるかの如くに、依然喧伝する方があるやうに聞きますが、総て破壊動乱を喜ぶのは悪魔の心であって、こんな人は上に上げた御幣担ぎもおよば ぬ、大取り違いを致しておるのであります。 即ちこれらの人は神諭中に「急慮に致せばこの世は潰れてしまうなれど、ここまで開けて来た世を潰すことは、どうしても神は忍びないから、この艮の金神は如何なりとして、一人でも多く改心させ、餓鬼虫けら迄も助けたいのが、この方の願いであるから、万一の事があれば、天の大神様へ申し訳がないから、ここ の所を推量して、どうぞ一日も 早く改心して下されよ」
 とある、至仁至愛の大神の御心を汲み取らず、全然目の付け所が違って居るのであります。

-『王仁文庫』第二輯-

 これは近年でも十分に起こることで、例えばかつて話題になったノストラダムスの予言なども、〇〇が起きる、いや△△だ、という解釈に終始し、結局騒ぎを起こすだけで、なんら解決策も見いだされないのが現状です。 つまり、イタズラに好奇心を煽るだけみたいなことに終始しては、預言の意味も失ってしまうことに なります。

 スピリチュアリズムでも多少預言的なものがあるものの、極端に多い訳ではなく、また個人の運命と同じで、未来はこうなると定められたものではなく、人類次第で良くもなれば悪くもなるのが本質です。
 ただ、大筋で将来はこうなる、と予定されているものもあり、その実現が何時頃になるか?早くなるのも遅くなるのも又人類次第となります。以下、そうした大雑把な未来象ではあるものの、必定といってもよいものをピックアップしていきます。

人類の新たな指導原理

 スピリチュアリズムでは、東西問わずに、今後この原理がやがては世界的に普及し、人類にとっての宝となるように伝えられています。
 従って、預言部分の最初は、そのスピリチュアリズム自体が、やがては人類にとって普遍的な価値を有する指導原理になるというものです。

モリス婦人

…然らば現時の人類の最大目標は何か?―他でもない、それは顕幽 両界の大連結であります。過去数世紀に渡って、人類の前面には、精神的大障壁が横たわり、殆ど全く霊界の展望を妨げて居ましたが、今や再び昔のイスラエルの時代のように、それが撤廃されるべき機運に達しました。

… (中略)…

 今や顕幽両界の障壁が、ようやく撤廃に近づくと同 時に、太陽神主宰下の大天使長 は、そろそろ地上の経綸を、直接の指揮下に置かんとしつつあります。
 その大人格は外でもない、イスラエル神話のいわゆるミカエルであります。霊界の居住者の一人として、私はこの大人格が、今まさ に地上人類の霊的覚醒を促すべく、活動を起こしつつあることを、諸君に警告するものであります。
 世界同胞精神の普及―これ以外に、人類平和の鍵はどこにもない。が、無論ただ口に世界同胞愛を呼號するだけでは、何の役にも立ちません。それで人間をゴマかすことは出来ても、神をゴマかし、宇宙の法則をゴマかすことはできません。口に唱えた事は、これを行為の上に生かされねば成りません。ところが、現時の人類は、口で説明することはお上手になったが、まだ十分同胞愛の真義に徹しては おらぬらしい。その証拠は、移民の制限に現はれ、土地の争奪に現はれ、償金の強要に現はれ、その他多くの事物に現はれている。

… (中略)…

 近来顕幽の連絡がつけられた結果、死後個性の存続が証明された といふ事は、人類にとりて、大切な事柄ではあるが、しかしそれは、進むべき段階の第一歩に過ぎない。諸君百尺竿頭一歩をすすめ、他界の偉大なる指導者達との、共同運動を開始するまでにならねば本当ではない。宇宙内部の各段階の連動装置―─これを円滑に進行させる事が、神の摂理の眼目であらねばなりません。
 これを要するに、現下の最大事業は、今後人類の據りて立つべき、天衣無縫の指導原理の確立であると信じます。それは一宗一波、又は一地方民族の占有物でなく、普遍的共通指針であり、同時に現在の活問題の解決に対して、実行的威力を有するものでなければならぬ。これを宗教と称するなら称してよいが、それは既成宗教のすべてと異な り、太陽神から直接司配さるる、大自然教であらねばなりませぬ。
 既成宗教は、決してその敵ではなく、むしろその下にありて、特殊の方面、特殊の民族を分担すべき性質のものでしょう。

… (中略)…

 私はなるべく預言じみたことは言いたくないが、ただこれだけの 事は諸君に告げたいと思う。他無し、従来よりも広く、 より深く、又より自由なる真信仰が、世界の人類を司配すべき時代が、久しからずして到来するという事であります。
 地上人類の進化のテンポは、近年非常に速まり、従来とはすっかり異なった、精神の糧を必要とする魂の所有者が、どしどし出現しつつあります。
 この要求を遺憾なく充たすのが、ただ最も正しき意味の神霊主 義…科学と、宗教と、哲学とを打って一丸となし、理論実行二つながら兼ね備えたる。活きたまことの道であらねばならぬことは、申すまでもな いと信じます。
 いやしくも、籍を神霊主義の籬(まがき)のうちに置かれる方々は、よく自己の重き責任を自覚し、いつまでも霊界の入り口に足踏みして満足することなく、 本源の世界に向かって、できるだけ奥深く潮航するようにして頂きたい。

-『霊訓』1931年7月28日フォルチュン劇場におけるモリス夫人入神公演
/浅野和三郎訳-

 とはいっても、現状そんな気配すらしません。 最も、霊界側は人類の進歩に合わせて少しずつ浸透を願い、急激な改革は望んでいないようです。
 原始キリスト教も、西暦150年ほどまでで、キリスト教が現代の様に確立されたのは、キリスト自身が無くなってから相当の年数が経過しています。

 また、大本神諭や霊訓といった古い啓示の類に触れた人々も、その預言の実現を見ることなく終わっています。
 従って、数世紀先のことかも知れないし、すぐ先のことかも知れません。実はスピリチュアリズムでの預言は大まかにいうと、キリスト教でいう 「千年王 国」、仏教での「弥勒の世」、聖徳太子の「日本國未来記」や「未然本記」といった預言と大筋で似ていて、大筋で以下のようなものです。

  • 1多くの偽予言者が現われる
  • 2戦争や民族紛争、国際紛争が起こる
  • 3飢饉や地震など人災・天災が多くなる
  • 4人々が堕落し、腐敗や不正がはびこる世の中になる
  • 5福音が伝えられ、全人類に輝かしい未来が訪れる

 従って、キリスト教的に言うと、キリストが復活し、大いなる試しがあって、その後に1000年王国がやって来る、という預言は2000年も野ざらしになったままですが、そのくらい壮大なスパンなので、何時という時期を限定すること自体が不可能(人類次第で変わる為)であるものの「いずれ実現すると予定されている」と考えればよいでしょう。

 「キリストの復活」ルーベンスここで、 スピリチュアリズムからみたキリストの復活について述べたいと思います。キリスト教信者の方には”ご都合主義”に見え、受け入れられない内容と思われますが、キリストの復活は肉体による(つまり、イエス・キリストが元のままの肉体をまとって)復活すると いう意味ではないと言われています。

 キリストが処刑後に再び姿を現したのは、霊体で現れたのであり、また福音(証し)を携えるのも、キリスト精神や影響力の復活ということであり、実はスピリチュアリズムの勃興で多くの霊団が地上にメッセージを伝えていますが、この総指揮官にあたる人物が、地上でかつて、ナザレのイエスという肉体をまとって産まれた魂ということです。


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