全体のまとめ1

神示は何故矛盾するのか?

 日月神示の特徴として、下記の様に一行で矛盾している場合もあれば、前半に書かれていた事と、中・後半で書かれたものが違っている、というケースもあります。
 これは単純に、矛盾のある穴だらけの神示とする事も可能ですが、日月神示の項に記したように、敢えて違った事を述べている、という可能性もあります。

日月神示

我があってはならない

●我を張っていると、いつまでも判らずに苦しむばかりぞ

●我がこの道の大き邪魔となるぞ、くどいようなれど繰り返し気付けおくぞ

我がなくてはならない

●我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示読めと申すのぞ

●人間心には我があるぞ。神心には我が無いぞ。我がなくてもならんぞ。我があってはならんぞ。我が無くてはならず、あってはならん道理わかりたか。神に融けいれよ。てんし様に融けいれよ。我なくせ、我だせよ

●我を出してはならんぞ、我を出すと力なくなるぞ。我を、大き我に昇華させよ。大我に融け入らねばならん。大我に融け入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。

●臍(へそ)の緒はつながっているのであるから、一段奥の臍へ臍へと進んで行けば、そこに新しき広い世界、大きくひらけるのであるぞ。自分なくするのではなく、高く深くするのであるぞ。無我でないぞ。

欲を張ってはならない

●金もうけさせんぞ。欲捨てて下されよ

●欲だすから、心曇るから、我よしになるから中々に改心できんなり、難しいぞよ。欲さっぱりと捨てて下されよ。欲でると判らなくなるぞ

欲深くなければならない

●欲捨てると判って来るぞ、誠の欲深になれよ

●御用いくらでもあるぞ、お蔭取り徳ぢゃ。出来るだけ大き器持ちて御座れよ、皆々欲がチビイぞ、欲が小さいなあ。話すことは放すことじゃ、放すとつかめるぞ。

●臣民近欲なから判らんのぞ、欲も無くてはならんのざぞ。

 個々の矛盾した部分だけを取り出すと余計に訳が分からないので、意地悪になってしまいますが、万事このように問答のようなものばかりではなく、分かりやすい部分も沢山有ります。
 また「この世一切の物は、神のものぞ、人民のものは一つも無いぞ」と書いてあったり「この世一切のものは、自分(読み手)のものぞ、だといって、鼻高になればポキン折れるぞ」
「一切は自分のものと申してあらう。上も下も右も左も皆自分のものぞ。自分ぞ。其処にまこと愛生れるぞ」
という様な箇所も存在します。

 しかし、これは敢えて間違った情報を与えて、うっかり鵜呑みにできないという経験をする事で自分で意味を掘り下げようとする、或いは思うようにやってみることで、何かしらの体験を得るという事を想定してるのかもしれません。
 破れるのは内からで、外からはビクともせん、という事も書かれており、以下に紹介する様な記述も存在するからです。

日月神示

●ミタマ相当にとりて思ふ様やりてみよ、行出来ればその通り行くのぢゃ、神に気に入らん事スコタンばかりぢゃから、引込み思案せずに堂々とやりて下されよ。
 こんな楽な世になってゐるのぢゃ、屁も放(ひ)れ よ、沈香もたけよ、ふらふらして思案投首この方嫌ひぢゃ。

●行き詰まりがありがたいのじゃ。進んでいるからこそ、行きあたり行きづまるのぢゃ。省みる時与えられてのぢゃ。さとりの時与えられたにぢゃ。ものは、離 すからこそ掴めるのぢゃ。

●神示に囚はれるから判らん。神示すてて、仕事に神示活かして生活せよ。生活が神示ぢゃ。判りたか。

●真剣なれば失敗してもよいと申してあろうが。省みることによって更に数倍することが得られるのであるぞ。

●迷ふなよ。迷ふは慾からぢゃ。体験と理解のみ財産ぞ。神示肚に入ったら、それでもうよいぞ。去りて花咲かせ。肚に入るまでは去ってはならん。

●そなたは中々に立派な理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、あわの如きもの、そなたの財産にはならんぞ。体験の財産は死んでからも役にたつ。

●考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へれ ばいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。

 人というのは、何かの話を聞いたり、説明を受けて分かった気になっていても、本当に得心するのは自分で体験した時になります。またそれが為に知識だけは得たものの、その知識を活かさないままでいる。という事もよくあるケースです。

 本当に得心するのは痛い目を見た時、というのも有り勝ちなことで、外部から色々説明されて、その時は良く分かった積もりになっていても、案外変わらないものだし、結局は体験を通じて、或いは痛い目に遭って少しずつ変わって行くものです。

 これは、或る一つの作業を習得するのに、一から教えてもらって言われるがままにやってみたら出来た。というパターンよりも、道具を与えられて少々の示唆を受けただけで、後は自分で試行錯誤し、間違いながら覚えていく方が遥かに身に着くというのに似ています。

途中でコロリと変わる神示

 以下に示すものは前半には違うような(或いは誤解を産むような)ことを記しつつも、中・後半にはそれをひっくり返すような内容です。ちなみに、後述しますが王仁三郎氏もこのような傾向があったらしく、それだけ疑われやすい人でもあったと思われます。

日月神示

(まつ)

●早く神まつりてくれよ、神祀らねば何もできぬぞ。表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ。

●早よう神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉よ、てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ、臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ。

●神様にはお灯明ばかり供へてはまだ足らぬのぞ、お灯明と共に水捧げなならんのざぞ、火と水ぞと申してあろ、神示よく裏の裏まで読みて下されよ、守護神殿祭りて呉よ、まつらはねば力現はれぬぞ。

●まつりまつりと、くどく知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組みで、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分かりたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分からんぞ。
 そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、早ようまつりて呉れと申すこと、よく聞き分けて呉れよ。我が我がと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、この御道は鼻高と取り違ひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取り違ひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。ここまでわけて申さばよく分かるであろう。

祈り

●拝んで居ればよくなるぞ。そんなこと迷信と申すか、拝んでみなされ。百日一生懸命で拝んで見なされ。必ずおかげあるぞ。神があるから光がさして嬉し嬉しとなるのであるぞ。

●真剣で求めると真剣さずかるぞ。求める事は祈る事。よく祈るものはよく与へられる。日々の祈りは行であるぞ。百年祈り続けても祈りだけでは何もならん。それは祈り地獄ぢゃ。祈り地獄多いのう。

●肉体人は肉体の行をせねばならん。日々の祈り結構致してくれよ。次の祈りは省みることぞ。いくら祈り行じても自分省みねば、千年行じても何もならん道理じゃ。同じ山に登ったり降りたり、御苦労のこと、馬鹿の散歩と申すもの。

日本と外国

●日本は御土が上がる、外国は御土が下がる。都の大洗濯、鄙(ひな)の大洗濯、人のお洗濯、今度はどうにも堪えてくれといふところまで、後へ引かぬから、その積もりでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。

●悪の仕組は、日本魂を根こそぎ抜いてしもうて、日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。日本の臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれていても、まだ気付かんか。

●悪も善に立ち返りて御用するのざぞ、善も悪もないのざと申してあろがな、かみの国、真中の神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ。
 島国日本にとらはれて呉れるなよ。小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ。幽界(がいこく)と申すのは道を外れた国のことざと知らしてあらうがな。外国とは幽界の事ぞ、外国と手握るとは幽界と手握る事ざぞよ。

 いかがですか?初めに文字通りに、馬鹿正直に受け取ると、後でひっくり返されることになります。
 それだけに、途中でアホらしくなる人も居るかも知れないですが、内容を慎重に租借しないと、意味が通じない事が多々あります。
 暗号化した様に、且つ大本の神諭系と矛盾する所が無いのに、中身に矛盾が多いというのは、「裏の裏まで読め」とあるように、何かの意図があると考えた方が自然です。
 参考になるか分かりませんが、以下にホワイト・イーグルの霊訓を引用します

ホワイト・イーグル

・「指導霊が貴方に通信を送る場合、何よりも意図することは、総体的に見た霊性進化である。指導霊の貴方への愛は、純粋で個人の域を越えている。その一つの考え一つの目論見に、単に一人を目的とせず、全体の善を目的としている。
 貴方にへつらった通信、個人的・利己的な性格の強い通信は、貴方を試みる為のものかも知れない。
 霊的な展開においては、明らかに矛盾した通信、逆説が起こり得る。しかし、それらの言葉をすべてよく注意して考えてみるように。」


どこかにヒントは隠されている

神=自分とは

 日月神示の中には、前述のように「この世一切は神のものであるぞ、人間のものというのは何も無いぞ」という部分や「この世一切は自分(読み手)のものぞ」という矛盾する箇所が幾つか存在しています。

 しかし、よく眺めてみると、何かしらヒントとなるようなものも内包されているのも事実で、上記矛盾点と関連するようなものも、神示に見受けられます。それは神=人間、人間=この世の神、という概念を綴ったものです。

日月神示

●神は人であるぞ。山であるぞ、川であるぞ、めである。野である。草である。木である。動物であるぞ。為すことは皆忠となり考とながれるのぞ。死もなく生もないのぞ。神心あるのみぞ

●山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ、神祀れと申すのは、神にまつろうことと申してあろうが、神々まつり合わすことぞ、みな何もかもまつり合った姿が神の姿、神の心ぞ。

●山も自分、川も自分、海も自分ぞ。草木動物ことごとく自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ

●自分捨てて他力なし。人間なくてこの世の仕事できん。人間は道具ぢゃ。神は心ぢゃ。元ぢゃ。元だけではならん。道具だけではならん。大神は一切を幸し、一切を救い給ふのであるぞ。一切が神であり一切が喜びであるぞ。一切が自分であるぞ。

●自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。

●自分は自分一人ではなく、タテにもヨコにも無限につながっているのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。

●一人の世界は知れたものぞ。一人ではマコトの道を生きては行かれんぞ。友と申しても人間ばかりでないぞ。山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ。大地も大空も皆友となるぞ。何もかも皆友ぢゃ。皆己ぢゃ。皆々己となれば己はなくなるぞ。

●他を愛するは真愛ぞ。己のみ愛するのは自己愛ぞ。自己愛を排してはならん。自己愛を拡げて、大きくして真愛と合致させねばならん。 そこに新しき道ひらけるのであるぞ。自己愛を悪魔と説くは悪魔ぞ。無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。

 この様に矛盾していて且つシンプル過ぎて意味が分かり難いのですが、この神示の意味を租借する上で参考になったのが、西洋のスピリチュアリズムです。
 後述しますが、神示との共通点が多々あるのです。また、相手の気持ちを考える為に相手の立場に立ってみる、というのは有効な手段ですが、これも役に立ちました。つまり、相手(=神)の立場で考えてみるという訳です。

 キリスト教的に言うと神が総てを創造した。神に似せて人間をこしらえた、という概念がありますが、すると人間は神の子供ということになります。
 「親は子供の事をわが事の様に思う」と言いますが、文字通り総てを自分と同じ様に思う、ということになります。

 親(=神)は総てが子なので、我が子も他人の子も無い訳です。その親の立場で他人のことも我が事の様に思い、総てを自分と同じように感じる。他人の喜びが自分の喜びである、という様に自分が全体に、全体が自分となって行くと、個としての自分が消えていく事になります。

 キリストが説いたと言われる「自分がして欲しいと思うことを他人にも施せよ」という黄金律と結果的に同じ意味です。
 これは、言うのは容易く実行は非常に難しいものです。頭で理解できても、それが常に行えるかと言えば、至難の業です。
 ただ、人間にはミニチュア版として家族があり、神示にも以下の様な記述があります。

日月神示

●神は無理申さん。始めは子の為でもよい。親の為でもよい。自分以外の者の為に、先ず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。はじめの世界開けるぞ

●こと分けて申せば今の臣民すぐは出来ぬであろが。はじめは六分国のため、四分自分のため、次は七分国のため、三分自分のため、次は八分国のため、二分自分のため、という様にしてくれよ、これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ

 前述した、「我をなくせ」「我を出せよ」「大我と小我」「小さい欲」「大きな欲」というのも、同種の意味に捉えられると考えられます。

 西洋スピリチュアリズムで「シルバーバーチの霊訓」と呼ばれるものにも、同じ「大我」という言葉が出てきますが(これが当初は驚きであった)こういった西洋のスピリチュアリズムに触れてみるのも良いでしょう。



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