日月神示の特徴として、下記の様に一行で矛盾している場合もあれば、前半に書かれていた事と、中・後半で書かれたものが違っている、というケースもあります。
これは単純に、矛盾のある穴だらけの神示とする事も可能ですが、日月神示の項に記したように、敢えて違った事を述べている、という可能性もあります。
日月神示 |
我があってはならない ●我を張っていると、いつまでも判らずに苦しむばかりぞ 我がなくてはならない ●我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示読めと申すのぞ 欲を張ってはならない ●金もうけさせんぞ。欲捨てて下されよ 欲深くなければならない ●欲捨てると判って来るぞ、誠の欲深になれよ
●臣民近欲なから判らんのぞ、欲も無くてはならんのざぞ。 |
個々の矛盾した部分だけを取り出すと余計に訳が分からないので、意地悪になってしまいますが、万事このように問答のようなものばかりではなく、分かりやすい部分も沢山有ります。
また「この世一切の物は、神のものぞ、人民のものは一つも無いぞ」と書いてあったり「この世一切のものは、自分(読み手)のものぞ、だといって、鼻高になればポキン折れるぞ」
「一切は自分のものと申してあらう。上も下も右も左も皆自分のものぞ。自分ぞ。其処にまこと愛生れるぞ」という様な箇所も存在します。
しかし、これは敢えて間違った情報を与えて、うっかり鵜呑みにできないという経験をする事で自分で意味を掘り下げようとする、或いは思うようにやってみることで、何かしらの体験を得るという事を想定してるのかもしれません。
破れるのは内からで、外からはビクともせん、という事も書かれており、以下に紹介する様な記述も存在するからです。
日月神示 |
●ミタマ相当にとりて思ふ様やりてみよ、行出来ればその通り行くのぢゃ、神に気に入らん事スコタンばかりぢゃから、引込み思案せずに堂々とやりて下されよ。 |
人というのは、何かの話を聞いたり、説明を受けて分かった気になっていても、本当に得心するのは自分で体験した時になります。またそれが為に知識だけは得たものの、その知識を活かさないままでいる。という事もよくあるケースです。
本当に得心するのは痛い目を見た時、というのも有り勝ちなことで、外部から色々説明されて、その時は良く分かった積もりになっていても、案外変わらないものだし、結局は体験を通じて、或いは痛い目に遭って少しずつ変わって行くものです。
これは、或る一つの作業を習得するのに、一から教えてもらって言われるがままにやってみたら出来た。というパターンよりも、道具を与えられて少々の示唆を受けただけで、後は自分で試行錯誤し、間違いながら覚えていく方が遥かに身に着くというのに似ています。
以下に示すものは前半には違うような(或いは誤解を産むような)ことを記しつつも、中・後半にはそれをひっくり返すような内容です。ちなみに、後述しますが王仁三郎氏もこのような傾向があったらしく、それだけ疑われやすい人でもあったと思われます。
日月神示 |
祀(まつ)り ●早く神まつりてくれよ、神祀らねば何もできぬぞ。表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ。 祈り ●拝んで居ればよくなるぞ。そんなこと迷信と申すか、拝んでみなされ。百日一生懸命で拝んで見なされ。必ずおかげあるぞ。神があるから光がさして嬉し嬉しとなるのであるぞ。 日本と外国 ●日本は御土が上がる、外国は御土が下がる。都の大洗濯、鄙(ひな)の大洗濯、人のお洗濯、今度はどうにも堪えてくれといふところまで、後へ引かぬから、その積もりでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。 |
いかがですか?初めに文字通りに、馬鹿正直に受け取ると、後でひっくり返されることになります。
それだけに、途中でアホらしくなる人も居るかも知れないですが、内容を慎重に租借しないと、意味が通じない事が多々あります。
暗号化した様に、且つ大本の神諭系と矛盾する所が無いのに、中身に矛盾が多いというのは、「裏の裏まで読め」とあるように、何かの意図があると考えた方が自然です。
参考になるか分かりませんが、以下にホワイト・イーグルの霊訓を引用します
ホワイト・イーグル |
・「指導霊が貴方に通信を送る場合、何よりも意図することは、総体的に見た霊性進化である。指導霊の貴方への愛は、純粋で個人の域を越えている。その一つの考え一つの目論見に、単に一人を目的とせず、全体の善を目的としている。 |
日月神示の中には、前述のように「この世一切は神のものであるぞ、人間のものというのは何も無いぞ」という部分や「この世一切は自分(読み手)のものぞ」という矛盾する箇所が幾つか存在しています。
しかし、よく眺めてみると、何かしらヒントとなるようなものも内包されているのも事実で、上記矛盾点と関連するようなものも、神示に見受けられます。それは神=人間、人間=この世の神、という概念を綴ったものです。
日月神示 |
●神は人であるぞ。山であるぞ、川であるぞ、めである。野である。草である。木である。動物であるぞ。為すことは皆忠となり考とながれるのぞ。死もなく生もないのぞ。神心あるのみぞ |
この様に矛盾していて且つシンプル過ぎて意味が分かり難いのですが、この神示の意味を租借する上で参考になったのが、西洋のスピリチュアリズムです。
後述しますが、神示との共通点が多々あるのです。また、相手の気持ちを考える為に相手の立場に立ってみる、というのは有効な手段ですが、これも役に立ちました。つまり、相手(=神)の立場で考えてみるという訳です。
キリスト教的に言うと神が総てを創造した。神に似せて人間をこしらえた、という概念がありますが、すると人間は神の子供ということになります。
「親は子供の事をわが事の様に思う」と言いますが、文字通り総てを自分と同じ様に思う、ということになります。
親(=神)は総てが子なので、我が子も他人の子も無い訳です。その親の立場で他人のことも我が事の様に思い、総てを自分と同じように感じる。他人の喜びが自分の喜びである、という様に自分が全体に、全体が自分となって行くと、個としての自分が消えていく事になります。
キリストが説いたと言われる「自分がして欲しいと思うことを他人にも施せよ」という黄金律と結果的に同じ意味です。
これは、言うのは容易く実行は非常に難しいものです。頭で理解できても、それが常に行えるかと言えば、至難の業です。
ただ、人間にはミニチュア版として家族があり、神示にも以下の様な記述があります。
日月神示 |
●神は無理申さん。始めは子の為でもよい。親の為でもよい。自分以外の者の為に、先ず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。はじめの世界開けるぞ |
前述した、「我をなくせ」「我を出せよ」「大我と小我」「小さい欲」と「大きな欲」というのも、同種の意味に捉えられると考えられます。
西洋スピリチュアリズムで「シルバーバーチの霊訓」と呼ばれるものにも、同じ「大我」という言葉が出てきますが(これが当初は驚きであった)こういった西洋のスピリチュアリズムに触れてみるのも良いでしょう。