天元鏡/辻天水氏の生涯1

はじめは頑固な人だった!?

 辻天水(本名正道)氏は明治24年(1891)6月21日、三重県の菰野の町に産まれた。辻家は第59代・宇多天皇の近江源氏の佐々木源盛綱を祖とする家系で、盛綱より7代目にあたる真野行定の孫、間宮定利が近江国高嶋群の澤ノ庄辻村に移り住んだ際に、辻姓を名乗るようになったという、由緒在る家系であった。

   大正8年の頃に、小高という大本の宣伝使が菰野を訪れ、盛んに布教活動を開始した。結果、多くの入信者が現れ、この地に大本支部が出来る事となった。この際に支部設立を世話したのが、辻氏であったという。しかし、その割には辻氏は入信するという訳でもなく、その意思も無かったようで隣村の石垣という宣伝使が「辻さんに入信していただくのに、10年かかった」という述懐をしている。

   結局昭和5年に、ようやく辻氏は、妻のゆき女史と共に、研修会に参加する事となった。この研修会には、他にも参加者が居たようであるが、王仁三郎氏は辻氏を見るなり
「あんたは伊勢のカンノシ(神主)か?」
と聞いてきたという。

「いいえ」
と否定したものの、王仁三郎氏は納得せずに
「いや、お前は伊勢のカンノシじゃ、カンノシになれ」
と言っていたという。

 この日の研修会を契機に、辻氏は大本に入信するようになった。その後、辻氏は亀岡の本部で「大本皇大神」の揮毫(きごう)と宣伝使の階位の辞令書きという、事務職を続ける事となった。
そんなある日、王仁三郎氏がひょっこり、辻氏の仕事部屋にやって来た。
「おう、感心に真面目にやっておるのう」
と辻氏の揮毫した「大本皇大神」の神号を見ると
「後で、ここに日が入らねばならぬがなぁ」
と呟いたという。

   昭和10年、大本の第二次弾圧のあった年、王仁三郎氏が、また辻氏の仕事場に顔を出した。辻氏の入信は昭和5年とされているので、つごう5年ほど事務職に専念していた事になる。辻氏は思い切って
「聖師さま、私は何時までこの仕事をすれ宜しいのでしょう。来る日も来る日も、こうして辞令書きばかり、どうか私を宣伝使にして頂けませんでしょうか」

と頼んだ。すると王仁三郎氏は
「あんな玄関先で喋っているのの何がええのか」
と、この願いは受け入れなかった。こうして、再び辞令書きを続ける事となったが、数日後に再び王仁三郎氏が、辻氏の仕事場に現れた。
「今日は精がでるの」
「左様ですか、有り難うございます」

 という少々のやり取りの後、辻氏は思わず「アッ」と叫んでしまったという。それは「大本皇大神」と揮毫する所を「大 本皇大神」と大と本の間が開 いてしまったからだ。

辻氏の仕事は最後の一厘の仕組み?

「申し訳有りません、書き直しましょうか」
と辻氏が謝ると
「それでええんや、ちょい貸してみぃ」
と王仁三郎氏が自ら筆を取ると、大と本の間に「日」を書き入れて「大日本皇大神」という神号を書いた。そして
「これでええやろう、これをお前にやる、いずれ大事な時に使う事 になるからな」
「どんな時でしょうか?」
「一厘の仕組みや、あんたの本当の仕事はそれや」
と王仁三郎氏は語った。

 「一厘の仕組み」とは、出口ナオ女史の「大本神諭」の時から出ている謎の仕組みで、大体の概要としては、悪神/体主霊従(物質・肉体を主体として、精神・霊を従とする現代人や風潮)によって九分九厘まで汚された世界を、残り一厘の仕組みでひっくり返す。つまり一厘の仕組み=世界救世の大神業と、同一視されるほど、大本では重要な秘策であるとされていた。

「私にそんな大層な事ができますでしょうか」
「ええか、よく聞けよ、この大本は宗教やないで、神業団体や、この意味判るか」
「わしは先ず仏教を滅ぼす型をやるのや、それが色々な宗教を滅ぼす型になるのや」
と王仁三郎氏は答えた。
辻氏は不思議に思い
「どうして宗教を滅ぼすのですか?」
と聞いた。すると王仁三郎氏は
「ミロクの世に宗教があってどないする、宗教というものが無いのがほんま、素晴らしい世の中なるんや」
と答えたという。

 確かに、誰もが倫理的・道徳的な人達ばかりで、お互いが助け合うような世の中であったとすれば、警察も宗教も要らなくなるという理屈になる。
 しかし、後述になるが実は西洋において復興したスピリチュアリズムの根底の部分にも、これまでの宗教を破壊するという意図も存在してる。

 こう聞けば誰でも恐ろしいものの様に聞こえると思うし、自分も当初は不気味な印象を持っていた。またキリスト教には「死者と語るなかれ」という聖書の教えもあり、この一節もスピリチュアリズム排斥運動の理由になっていた様だ。

王仁三郎氏の検挙後、神業を継いだ(?)天水氏

  この様なやり取りのあった年の12月8日未明、大本の第二次弾圧が起こった。王仁三郎氏は警察に連行され、大津駅から京都駅へと移送される所だった。この話しを聞きつけた辻氏は、一目でも王仁三郎聖師に会おうと、大津駅に向かった。大津駅では、警護の官憲たちに周囲を囲まれていた。
 辻氏が官憲に金を握らせて、一時的に面会を許された。その間、辻氏と王仁三郎氏は、二人だけで面会する事ができた。「辻、お前、後頼んだで、後の仕組みは48人の大本の人間に残しておるから、続きは頼むで」と、大本で残された残りの神業を辻氏に託したのだという。

辻氏にも接近していた日出麿氏

 辻氏は出口日出麿氏とも親密な間であったらしい。(日出麿氏は先に挙げた日月神示の岡本天明氏とも懇意であり、興味深い人物だと思う)辻氏は、土地や財産を総て大本に献上してしまっていた。そうして辻氏は日出麿氏の自宅に呼ばれる事があった。

「あんたですか、伊勢の土地一切を献納されたんは」
「左様でございます」
「伊勢というと、あんたの所に山から伊勢の海、四日市は見えますか?」
「はい、頂上に登れば見えます」

といったやり取りの後、日出麿氏は
「そこじゃ、そこに違いない、わしお前様の家に行きたい」
と語ったという。

 日出麿氏はこうして初めて辻氏の家を訪れる事になったが、辻氏の家の家紋を見て驚いた(日と月と剣をあしらった、珍しいものであった。)大本の裏家紋とソックリであったからだ。
「やっぱりあんさんの家は大した家じゃ」
と呟いたという。数日後、日出麿氏は辻氏に「天水」と名乗るように告げた。これより以降、辻正道氏は、天水と名乗るようになる。

 話しは前後するものの、昭和9年には、三雲家の自宅の神前に天水氏の持参した刀を用いて剣の祭が行われた。その後、この刀は天水氏から、王仁三郎氏に献上されたが、この辻家伝来の刀の家紋を見て王仁三郎氏も驚き、この刀に「神聖丸」と命名、同年7月22日に発足した昭和神聖会の守り刀とした。

 またこの年には、日出麿氏が再び辻家を訪れ、御在所岳の麓にある、湯之山温泉に三日滞在していた。帰路の車中にて、日出麿氏は「神明」の幻影を見て「ここはほんま、大事な所や」と呟いたという。
 また、自分の履き物と、天水氏の履き物を取り替えるように命じ、しばし履き物を交換していたものの、再び元に戻すという奇妙な行動もとっていた。

 再び、大本弾圧後の辻氏の行動に戻ると、辻氏は王仁三郎氏に委託されたとおり、大きな世界地図の或る地点に立って祝詞を奏上したり、神劇として芝居を行うといった、一見無駄な事を繰り返していたという。
 何か不明な点がある場合、大阪府刑務所を訪れ、王仁三郎氏と面会をする様になった。昭和17年になって、ようやく王仁三郎氏は仮釈放となった。辻氏は王仁三郎氏と会うと
「よう今迄やってくれた、それで、頼みがあるんや」
というと、一枚の短冊を出した(開祖の時代の短冊で、一体を揮毫して奉斎し、もう一方は無地のまま、必要な時の為に取っておいたものだという)その短冊に、以下のような揮毫を行った。



   大
   国
   常
   立
   大
   神

 金   金 
 山   山 
 姫   彦 
 神   神 

この短冊の裏側には「これのある処、常に神業の中心地」という筆を加えて、これを辻氏に下賜した。



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