竜宮神示・神霊密書・紅卍会他について

竜宮神示とは

 竜宮神示とは、辻天水氏と三雲竜三氏が、昭和13年に丹後元伊勢、龍神社の奥宮の真名井神社に参拝した時に、三雲氏が突然神懸かり状態となり、その際に天水氏が審神を行った処、「真名井龍神」という神霊と判明し、それ以降昭和18年に至るまで、様々な神示が伝達されたもの。その内訳は「たま問答」「貴の神火山」「天の巻」「美火木物語」「三界物語」「三元の理」「雑」「二名稿」の全8巻からなるとされている。

日之出神諭/神霊密書とは

 出口ナオ女史が伝達したお筆先上に、清吉(ナオ女史の息子)が「日之出の神」の身魂であるとしていた。しかしその清吉自身は、明治28年に台湾に出征し、戦死した事になっていたものの、「おふでさき」では、清吉氏の死は否定されていた。
 所が大正6年12月15日、に出口ナオ女史の三女、福島久に「義理天上日之出神」が懸かり、清吉の肉体は死んだが、魂は永遠不滅で、その霊魂が本国に帰国して「義理天上日之出神」として、自分に懸かったのだと説明した。
 これ以降、久氏の筆先は「日之出神諭」と呼ばれるようになった。また、日之出神諭及び義理天上日之出神を信じる人達で「世界大門」という組織が作られた。

 また、王仁三郎氏の正体を、開祖の神業を妨害する、天照彦の身魂であると主張した。元々王仁三郎氏自体が、水業に参加しないとか、母親の病気で直ぐに大本を飛び出し帰省してしまうなど、神信仰の熱心な大本の人達には、不信感が強かったようで、この事件によって益々王仁三郎氏の立場は、悪くなってしまったのではないかと思われる。

 一方、矢野祐太郎氏は、明治14年(1881)3月15日、東京の築地に産まれた。中学
を卒業後には、海軍兵学校へ進学、そのまま軍人となっていった。大正8年には大佐に昇進、大正11年には少佐に昇進するという所で、海軍を辞めてしまい、大本に入り神霊研究に傾倒していく。
 大本内部でも、王仁三郎氏の入蒙の歳に、色々と手配するなどの活躍をしていた。

 しかし入蒙の後に、矢野祐太郎氏は王仁三郎氏と袂を分かった。その原因はハッキリ分からないものの、矢野氏は大本を離れ、前述した福島久一派の「世界大門」に入り「日之出神諭」の研究に入った。昭和4年10月2日には、矢野氏の細君であり、元々霊媒能力を持つ矢野シン女史(後に日月神示の翻訳作業に参加する)に、肝川八大龍神が懸かり「正道会(大門)には一人として、神の御心を理解しうる者が無い」
 と伝え、これ以降矢野氏は、大門とも袂を分かって独自に日之出の神の神業を行うようになっていく。

  昭和5年11月6日に「大出口直霊大神」という、昇天後の直開祖の神名を名乗る神から「棟梁皇祖太神宮(おむやこうそだいじんぐう)へ行け」との神勅が下り、その場所を調べた結果、北荻城の磯原にお宮がある事が判明、同年11月14日に、矢野氏は棟梁皇祖太神宮に参拝に赴いた。そこの館長が竹内巨麿で、偽書としても名高い「竹内文書」の研究者であった。

矢野祐太郎  こうして、矢野祐太郎氏は、竹内文書や奥さんのシン女史の霊媒能力を使った実験などを纏めた「神霊密書」を完成させた。この密書を100部刷り、各宮家や有志に配った。

 すると竹田大妃宮から「天皇様に差し上げたい」旨依頼があった。折り良く北白川宮若姫の婚礼の儀で、宮中から使いの女官が往復しはじめたので、この機会に、女官を使って内密に天皇へ御嘉納する事に成功した。

 昭和9年11月には神政龍神会を結成し、主要メンバーは上杉憲章伯爵、元警視総監・貴族院議員の赤池濃、元陸軍大佐高島己作などであった。

 しかし、矢野氏はすでに2年程(昭和7年)前から、特高に目を付けられていた。その為2.26事件の要注意人物の一掃計画の一環として、昭和11年当局に連行されてしまう。

 しかし検挙はしたものの、その内容に不信な点が無く、正当な理由無しに有罪を立証する事が難しくなり、検察側としては精神病という事で解決をしようと試みたらしい。が、それも無駄に終わり、とうとう監獄の中で矢野氏は毒殺されてしまう。

   昭和13年8月22日夜、悲報を聞いた長男と中里弁護士は、遺体を引き取りに向かった処、遺体の引き渡しを拒まれた。それでもと、強引に引き渡しを翌日の午後まで抗議し続けたところ、死因について詮索しない事を条件に、ようやく遺体が引き渡される事となった。矢野氏の遺体は、明らかに毒物によるもので、体のあちこちに斑点が浮き出ていたという。

 ちなみに、松本清張氏の『神々の乱心』は、小説用に誇張されているものの「神政龍神会」をモデルとしている。

紅卍字会の誕生

 中国、山東省北部・浜県に住む県知事の呉福林(じょふくりん)という人物が、同志達と共に、県署(役所)に神壇を設け、中国民間で行われていたフーチと呼ばれる自動書記法を用いて、1916年から17年にかけて、様々な事柄をフーチに現れた『尚真人』と名乗る神仙から受けていた。

 そんな中である時、福林氏は道教でいう最高神「老祖」の降臨を願い出た。しかし、その神格に著しい隔たりがある為に、尚真人は南極老人を取り次ぎとして、南極老人を仲介役に、ついに「老祖」の出現を見る事となった。
 ちなみに、この解説は「大本神諭」等や、霊訓と呼ばれる西洋のスピリチュアリズムのそれとよく似ている。(国祖「国常立命」の神示であるとしながら、その仲介役として「若姫君命」が取り次いだとされる)

 ここで降臨した「老祖」は、破滅に瀕した宇宙・世界を救済すべしという壇訓を下し、「太乙北極真経」(たいいつほっきょくしんぎょう)を授けた。
 これは中国・紅卍字会に降ろされた、一種の神示と言えるもので、こうして1922年、地上の霊的拠点として道院が設立される運びとなった。そして1925年には、救済の実行部隊としての性格を持つ「世界紅卍字会」が創設される事となる。

五教同根

 この紅卍字会に降りた神壇には、中国の神仙・仏教・キリスト・マホメット・孔子は、総て根を同じくする五教同根を 唱えていた。また1920年に 「老祖」が降臨した際に、その場に居合わせた三六名の中には、儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教の信者が各一名づつ参列していた。そしてその後、 神壇には道院の神示というイメージとはかけ離れた、キリストや釈迦などが相次いで神壇を伝えた。例えばそこに降ろされた中に以下のものが存在する。

「この世に満ちる悪濁に淘汰を加えない限り、世界は元の清明さと平安さを回復出来ない。あなたがたは努めて努力し、怠けてはならない。自分を救い、人を救いなさい。
 災劫がこれほど広がり、はびこっている以上、例え救っても救い切れるものではない等と考え、成り行き任せにする様な心を生じてはならない」

-イエス・キリスト-

「災劫が解消されるか否かは、ひとえに人の心にかかっている。人の心の向かう所に照応して、災劫は、或いは現れ、あるいは消えるのである。
人の心が不善であれば、邪気は多大となって災劫がはなはだしくなる。人心が善であれば、善の気が凝って災劫が解消される。」

-済仏-

 おおよそ、上記の様な壇訓が、次々と伝えられていく様になった。ちなみに、ある調査によると中国の1000人住むと言う村で、誰もがプラス思考、マイナス面を考えないようにするという実験がなされ、その結果その村に犯罪が減るなどは考え得る事だとしても、風雨地震などの災害が減り、また収入も増えるという、好結果を得るという報告もある。

同神異名

 こうしてみると、何か大本と似た経緯と思想を持つ事が、比較的容易に見て取れる。事実、これ等壇訓の中に「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」と示された。そして日本に関する壇訓の中には、「日本の首都に大地震が起こる」という事も伝えられ、直ちに救援物資等を送るなどの措置を採る事になった。
 一方、南京在住の日本領事・林出賢二郎氏は、道院から、近く日本に大地震が来るとの事で、突然白米二千石と銀二万元を託され、その時は奇妙に思ったと言う。

 しかしこの預言は的中し、そのことに驚嘆した林出氏は、大本の隠れ信者であった事もあり、日本に震災慰問に出発する、道院の候延爽(こうえんそう)氏他に、日本の出口王仁三郎氏と会見する事を進言した。
 この事を承諾した候氏等は、綾部の王仁三郎氏を尋ね、会見する運びとなった。そしてこれを契機に、両団体は親密な提携を結ぶようになる。
 一方、道院の壇訓に「中国の道院は日本の大本、日本の大本は中国の道院なり」と示され、また王仁三郎氏の神審(さにわ)で、道院の最高神、「老祖」は国常立命の別称であり、同神異名であるという事が判明したという。



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