出口鬼三郎の生涯

悪戯と女が好きな男

 王仁三郎氏は豪放らい楽、女好きで悪戯好き、また弁論好きな青年でもあったらしい。「村中の女とねんごろになってやる」と豪語したという話しや、女性問題のこじれで、地元のヤクザと諍い(後述)があった、というエピソードからも伺える。
 つまりは、およそ宗教家とか哲学家とは程遠い所があり、後の王仁三郎氏を調べても、どうも捕らえ所の無い所が多い。はたして王仁三郎氏とは、どの様な人物であったのだろうか。

 出口王仁三郎氏は、その本名を上田喜三郎という。その上田家には「七代目毎に、歴史に名を残す人物が産まれる」という言い伝えがあり。例えば円山応挙(おうきょ:上田主水/日本画家)などが上田家の出身で、「御苗」と呼ばれる、資産もかなりある裕福な農家であったらしい。
 しかしナオ女史と同じように、祖父のバクチによって飛ぶように散財したようだ。当の祖父(上田吉松)の言い分では

「上田家は業が深い、その罪障を取るため、一旦家も屋敷も無くなってしまわねば、良い芽は吹かぬぞよ。と産土の神が枕元に立って仰せられるのじゃ」

 と語り、毎日財産を放逐し続け、ついに破産という所で他界した。こうして全くの貧乏農家と、落ちる所まで落ちた後の明治4年(1871)丹波の穴太の村で、上田主水から数え、丁度七代目に当たる上田喜三郎(王仁三郎氏)は産声を上げた。

幼少より基礎は出来あがった!?

 祖母のウノは、旧姓を「中村ウノ」といい、江戸時代の言霊学者、中村孝道の妹であった。その為、喜三郎少年は子供の頃から言霊学を、他の子供の「あいうえお」の勉強の代わりに教わっていたらしい。病気の為に進学が三年遅れたため、この教育は比較的徹底していたと言われている。

 又どうも幼少の頃から不思議な老人(喜三郎しか見えなかった)が見えていた様で、病気の際に近隣の人から教えられて、親がカエルの肉を食わせて元気付けようとした所、その不思議な老人が睨み付けるので、恐ろしいからと喜三郎少年は、食べるフリだけして、全部カエルの肉を捨ててしまうなどがあったようだ。

不思議な子

 そして不思議なのは、彼は元々ズバ抜けて頭が良く、少年の頃から新聞が読めて、村の役人や巡査に新聞を読んで聞かせて居たらしい。もっともこれは、彼の頭脳云々ではなく、何故か読めたと言う事で、晩年になり自ら「自分でも不思議だが、とに角文面に向かえばズンズン読めた」と述懐している。

 小学生の頃には、授業中に先生の間違いを指摘して、反感を買ってしまう事もあった。又才能を買われて13歳にして、小学校の代用教員になるなど、神童ぶりを発揮していた。ただ、そのために、反感を持った前述の先生から苛められる事があったらしい。それ以外にも、水脈を言い当てるなど、周囲の村人には「不思議な子ぢゃ」と言われていたという。

 村全体としては、非常に仏教が普及していたようで、その中で何故か喜三郎少年だけは神道的な信仰心を持っていたらしく、その為に両親や村人達に非難される事も度々あった様だ。

深山での修行

 時は流れ、明治31年(1898)一つのターニング・ポイントとなる事件が起こる。喜三郎氏は、多田亀という侠客の娘と仲が良くなる。しかし、多田亀は河内一家と対立していた。その為に、河内一家は喜三郎を多田亀の「跡目」と勘違いしてしまい、喜三郎氏が村の浄瑠璃の会に出席していた時に、数人で殴り込みをかけてきた。

 多勢に無勢で、喜三郎氏は忽ち袋叩きにあってしまい、半死半生の目にあってしまう。この時、村人達は、近くの小屋に運び入れ、応急手当をしたものの、動く事もままならずに、そのまま小屋の中で朝を迎えた。
 その朝もやの中で、喜三郎氏は神秘的な体験をする。無意識に机に向かい「天地大本大御神」と書き、その時に目前に一人の男が立っているのを認めた。その男が「上田喜三郎だな」と問いかけ「そうですが」と答えると、男は「これからお前を富士山に連れていってやる」

と言い、風呂敷きのようなものを喜三郎氏に被せ、気が付くと高熊山の岩窟の中に、襦袢姿で喜三郎氏は座っていた。ここで喜三郎氏は都合一週間の修行を行う事になる。この期間、村では喜三郎が居なくなった。という事で、神隠し騒ぎが起こっていた。

 修行というのは、現実界での座禅と霊界の探訪を交互に行うという形で、この内容に関しては「霊界物語第一巻」に詳しく述べられている。とに角、この時を堺に、不可思議な能力が飛躍的に伸びたらしい。それ以前にも、紛失物を言い当てたり、水脈の在処を言い当てたりと「不思議な子供だ」と噂に上る事も少なくなかったのであるが、近年日本最大の霊能者と呼ばれるその能力は、この頃一気に開花したのかも知れない。

穴太の喜楽天狗さん、審神(さにわ)の修行

 この高熊山での修行の後に、友人の家で教会を開き、病人等を次々と治していき、次第に彼は「穴太の喜楽天狗さん」と呼ばれるようになる。
 そして噂を聞きつけた三矢喜右衛門という人物が喜三郎氏のもとを訪れ、稲荷講社の長本田親徳沢雄楯(かつたて)という人物に面会するように、と強く勧められ、喜三郎氏も静岡に住む、その長沢氏に会う事を決めた。

 長沢氏主宰の稲荷講社というのは、文政5(1823)年、薩摩国加世田に、本田親徳(ちかあつ)という人物の手によって誕生している。彼は、古事記に散見される「鎮魂帰神法」の復興を目指し、神懸かり現象には三六通りある事を悟り、鎮魂帰神法と審神(さにわ)学の体系を確立した。
 また彼は「稲荷神とは、飯成の神であり、衣食住を司る神様であり、お稲荷さんとか、狐付き等と、馬鹿にするのは甚だしい誤解である」と語っており、二代目に当たる、長沢雄楯氏も、本田の没後にその意志を継ぎ、静岡清水の月見里(やまなし)神社を拠点として、稲荷講社を組織していた。

十年後、丹波から一人の青年がやって来る

 ところで先代の本田親徳氏は、自らの死に際して長沢氏に「十年後、丹波から一人の青年が尋ねて来る、その者が来ると道が開ける」と預言めいた事を言い、その青年が現王仁三郎れたら渡すようにと、奥義書を残していた。
 そして十年後に、正しく丹波から喜三郎氏が長沢氏を尋ねてやってきたのである。その為長沢氏は、大切に保管していた奥義書を喜三郎氏に渡し、又鎮魂帰神法と審神学を伝授した。暫く後に王仁三郎氏は「鎮魂帰神二科高等得業証」を授かるに至った。

 稲荷講社で学んでいた時に、長沢氏の審神によって、喜三郎氏に懸かっている神はスサノオノ命の眷族「小松林命」であると判明する。
 こうして静岡での修行の後、程なく(明治31年7月)彼を導いていた守護神「小松林命」が

「一日も早く西北の方を指していけ、神界の仕組みがしてある。お前の来るのを待っている人がいる。仕事にも頓着する事無く、速やかにここを発て」

と言いだした。喜三郎氏は言われるがままに、西北の方面を目当てに旅に出かけた。

大本と上田喜三郎の出会い

 一方、出口直の三女の久は、京都で開催されている内国勧業博覧会の見物客をあてこんで、小さな茶店を出していた。そこへ、とに角「西北」に向かうべく旅をしていた喜三郎氏がひょっこり現れる。
 ちなみに、この時の喜三郎氏の服装は、革靴にお歯黒にコウモリ傘にバスケットという、異様な風体だった。

「お前さんは、狸でも見る人かね」
「わしは審神というて、神さんを見分ける者じゃ。まぁ尤もあちこちで調べさせてもろうたが、どいつも狸や狐ばっかりなんは確かや」
「そうどすか、どこから来はりましたん?」
「東、穴太じゃ」

という会話が、喜三郎氏と久女史の会話が取り交わされた。
 この時、久はナオのお筆先の「この神をさばけるお方は東から来るぞよ。その者が来れば、艮金神の道は開ける」という一節を思い出していた。
 そして、喜三郎氏に、ナオのお筆先の一部を見せた。この時、喜三郎氏はナオ女史に会う事を約束して、一旦別れた。ちなみに、この出会いの後、直ぐに久の茶店は、山陰線敷設工事の為に立ち退きを命じられた。

 こうして、初めて出口ナオ女史と王仁三郎氏は出会う事になるものの、最初の出会いは非常に淡白であり、又双方ともに、お互いがあまり信用できない様にも見受けられ、又実際にそういった記録が残されている。

 お筆先には、最初から西洋かぶれの幻影に浸っている日本人に警笛を鳴らしていたし、抽象的な意味でと思うが「洋服では収まらん」等という表現も見られた。
 そこにコウモリ傘にバスケットという、現代で比せば、金髪に染めて海外ブランドで固めた様な、見た目軽い人が大本の敷居をまたいでやって来たのだ。

 これは信心深いものの頑迷でもある昔の信者達には、中々受け入れ難い存在に映ったであろうことは想像に難しくない。
 こうして王仁三郎氏と出口ナオ女史の最初の出会いは、二日程滞在して、直ぐに別れてしまうという淡白なものであった。

艮の金神は王仁三郎氏でも、見分けられなかった?

 果たして、審神学を取得した王仁三郎氏は、この時に、お筆先を出した神を何神と見分けたのだろう?それとも見誤っていたのだろうか?大本神諭を見る限りでは

「こんな田舎の婆さんを頼りにせずとも、もっと偉い人に懸かったら良さそうな物だ」
「8月9月に盛り上がるとは、明治何年の8月9月じゃ。そんな事なら誰でも言える」

  など、結構辛辣に批判していた節がある。つまりは王仁三郎氏も、勘違い或いは見誤りをしていた、という可能性が有るものの、果たしてこれは、本当に単なる勘違いであったのか、それとも何かしらの『型』として、必要な出来事であったのかは分からない。

出口王仁三郎

・すでに悪魔に取りひしがれて、危うい所を差し添の、誠こころに染められて、捨てた思案の後戻り、洋服脱いで靴捨てて、皮の鞄も投げ捨てて、昔の神世の人となり、熟々(つらつら)思いめぐらせば、出口の守(かみ)のお知らせの、通りに汚れた世界じゃと、固く心を取り直し、ただ一筋の神の道、心も勇み気も開き、花咲く春に遭う思ひ、こんな結構が又と世に、三千世界にあろうかと、初めて悟り大本に、大きな尻を末永く、綾の高天で猫となる。 オットどっこい神様の、激しき威徳に照らされて、心の底の塵芥(ごもくた)を、白状したが情けない、これが出口の王仁三郎

-王仁文庫『いろは歌「その二」』(明治36年9月10日の作品)-

 この歌を読んでも、どうも王仁三郎氏の間違いであったという可能性もあるものの、西北に行けと神命が下したのは、王仁三郎氏の守護神「小松林命」であり、又それとは別に、艮の金神のお筆先にも、東からこの神を捌くお方云々という神示が下ったのを見ても、この二名の出会いはやはり経綸上必要な事であった様だ。

神の仕組みで出会った?

 出口ナオ女史と別れた喜三郎氏は、一年後に、再び会いたいと手紙をしたためる。一方ナオ女史の「おふでさき」には以下のような一節が現れていた。

大本神諭

●あのおん方は、このほうから引きよしたのだぞよ。神が守護のしてあること。

●神の仕組みがしてあるから、上田と申す者が出てきたならば、そこをあんばいよう取り持ちて、腹を合わしていたしてくれよ。

 喜三郎氏からの手紙を受けた直女史は、使いとして四方平蔵氏を差し向けた。四方氏が喜三郎氏のもとを訪れた時、喜三郎氏は四方氏の実家の様子をつぶさに語り聞かせ、また四方氏に鎮魂を施して、一時的に四方氏に「天眼通」を開花させ、今度は逆に王仁三郎氏の実家の様子を四方氏の脳裏に浮かばせた。
 この出来事に驚嘆した四方氏は「この者なら、間違い無い」と確信して、綾部に連れて帰る事となった。

 こうして喜三郎氏は、大本に腰を据えて会長になった。名前もお筆先に「鬼さぶろう」と出た事から、鬼三郎と改名するところ、さすがに鬼は嫌だと、千字文「王仁博士」から貰って、以後「王仁三郎」と名乗る事になった。ちなみに、王仁三郎氏の出身地穴太は、鬼退治伝説の発祥の地であるという事で、何かしら因縁めいた物を感じる。



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