出口直女史の生涯

九死に一生を得て生誕

 「おふでさき」と称される神示(後に王仁三郎氏の手により、漢字交じりに編纂されて、大本神諭が発行された)を現わした出口直は、天保7年(1836)12月16日、丹波国福知山紺屋町(現京都府福知山)で産声を上げた。おりしも天保の大飢饉のさなかであり、翌年には大塩平八郎の乱も発生している。

 もともと出口家は、祖父・曾祖父共に腕の立つ大工であったらしく、藩の御上大工として、名字帯刀まで許される程であった。
 しかし父の五郎三郎は道楽者で、かなりの散財をしてしまい、直の産まれる頃には、貧困生活を余儀なくされていた。更には史上でも稀な大飢饉のため、生活の困窮から直は本来、間曳きされる予定であったらしく、九死に一生を得た形となった。

 長ずるに従い、直女史は働き者で、謹厳実直な性格を現わし始め、十歳で住み込み奉公を始めた。酒乱の五郎三郎からは、余り良い扱いは受けてなかった様であるが、直女史自身は親孝行で、少女の頃にその親孝行ぶりを認められて、嘉永2年(1849年)に福知山藩主朽木綱張公藩から表彰を受けた。

結婚後も続く悲惨な境遇

 年頃になり、父と同じ大工の政五郎という夫と結婚することとなったものの、この夫も酒乱で次々に田畑を売り払い、とうとう屋敷も総て売り払うという、文字通りの一文無しにまで没落してしまった。
 それでも夫に対しては、愚痴を言わずに、常に一歩下がって仕えていたという事から、当時は一般的に男尊女卑の傾向があったのを考慮しても、恐ろしい程の忍耐強さと、控えめな性格であったと思われる。

ナオ その後の直女史は、どうなっているのかと思う程、不幸が続いている。夫 はアル中が祟って働く事が出来なくなり、大工見習いの長男(武蔵)は、仕事の辛さに耐え兼ね、発作的にノミで自分の喉を突いて自殺を図ったが、なんとか一命を取り留め、その後逃走して行方をくらませてしまった。

 三女の久(後に王仁三郎氏と出会い、大本との仲介役を果たすが、後に王仁三郎氏の活動の妨害に至る様になる)は産後の肥立ちが悪く、逆上して座敷牢に入れられ、そこで神の幻影を見るのだが、その後長女のヨネは発狂してしまう。

 唯一の働き手となった直は、屑拾いなどをして生計を立てていたが、ある程度の蓄えが出来ると夫の酒代に消えてしまうという様な毎日を送っていた。
 そして、明治25年(1892)正月元旦に、直女史が初めて神懸かり状態となる。この時に直氏に懸かった神は

「三千世界一度にひらく梅の花、艮(ウシトラ)の金神の世になりたぞよ。この神でなければ、世の立て替えはでけぬ。三千世界の大掃除大洗濯をいたすのじゃ。三千世界ひとつに丸めて万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ」

 と語った。ナオ女史は驚き「止めてくだされ、私などにそんな尊い神様が懸かられては勿体無い」と懇願したところ、その神は「わざと根底に落としてあろうがな」と伝えたという

三千世界の大気違い

 以前に長女・三女などが発狂した事もあって、周囲はついにナオまでが発狂したものと考えていたらしい。
 そしてナオは大声で、色々な事を叫びながら村を走り回り、その叫び声の一部に『・・・今のうちに改心致さねば、どこに飛び火がいたそうも知れんぞよ』という一節を聞き逃さなかった村人から、当時起きていた放火の犯人ではないかと警察に通報が入り、投獄されてしまう事になる。
 幸い真犯人が見つかった為に釈放される事になるが、警察には「三千世界の大峠」ならぬ「三千世界の大気違い」であると呼び、相変わらずナオを発狂者とみなしていた。

 お筆先この事件で懲りたナオは、投獄中自分に懸かった自称艮(ウシトラ)の金神に、大声で叫ばないようにと懇願す る。
 すると牢に落ちている釘を持てと、その金神は言う。釘を持ってみると光の筋が見え、その光に沿って釘で文字を書くようになった。
 これが通称「おふでさき」の始まりである。ナオ女史の自動書記した「おふでさき」は、最終的には半紙一万巻にも及んだという。

この神をさばける御方

 出所後もナオの「おふでさき」は続いたものの、7月頃には再びナオの口を使って預言めいた事を叫ぶようになる。その内容は日清・日露戦争などで、最初の頃は周囲の人間も、相手にしていなかったのだが、この預言は的中する事となり、その頃になって注目されるようになってくる。

 このような形で、様々な預言が的中して来ると、周囲の人間も、徐々に「おふでさき」や艮金神の事を信頼するようになり、信者の様な人達が出来はじめた。
 その「おふでさき」の中に、後に「大化け物」の異名を持つ、出口王仁三郎氏が現れて来る、と受け取れるものが出て来るようになった。

大本神諭

●おナオのそばへは、正真(しょうまつ)のお方がおいで遊ばすから、来た人を粗末なあしらい致すでは無いぞよ。(中略)不思議な人がみえたならば、我をださずとひっそりとお話を聞くが良いぞよ。

●この神をさばけるお方は東から来るぞよ。その者が来れば、ウシトラの金神の道はひらけるぞよ

●出口ナオに明治二五年に申してある事、この大望な仕組みのいたしてあることを、世界に一人知りておると、言い聞かしてあろうがな。この事が分かりてくるぞよ。

 こうして後に出口ナオ女史と王仁三郎氏(王仁三郎氏は確かに、穴太という東からやってきた)が運命的な出会いをする事になる。「東から」という言葉も、何か少し象徴的な感じもあって、興味深い出来事であったものの、意外に最初のこの二人の出会いは、淡白なものであったらしい。

 一旦別れてしまったナオ女史と王仁三郎氏は、それから約一年後に再会する事になる。しかし、王仁三郎氏が大本に腰を据えてからも、暫くの間、この2名には理解不足から、互いに反目していたらしい。
 厳密には、平素は2人とも仲が良いの(人の手を借りるのを嫌うナオ女史も、王仁三郎氏にだけは”おんぶ”されている所を数人に目撃されている)だが、一たび双方が神懸り状態になると、激しくやりあったらしい。

 大本神諭を読んでいる限りでも、審神で身を立てた王仁三郎氏も、まだ艮の金神を見分けられず、互いに和合して神業を遂行するという処までは至らなかった、という様にも受け取れる。
 果たして王仁三郎氏の認識がまだ甘い(要するに審神に失敗した)ものなのか、それとも何かしらの経綸上、二人の仲違いが必要なものであったのか、それは解らない。

艮の金神から知らされた弥勒大神

 大正5年に「神島開き」という神業が執り行なわれ、その際にナオ女史自らが艮の金神に、ナオの待ち焦がれる本当の弥勒大神は、王仁三郎の事であると知らされるという、ちょっとした事件が起きた。
 ナオ女史は「何度伺っても、王仁三郎が弥勒の大神様だとおっしゃるのじゃ」と大変な驚き様であったらしい。後にナオ女史自ら「今まで王仁三郎の事を誤解をしていた」と認める事となった。

大本発祥の経緯とその真偽


 大本の発祥という経緯というのは、大体以上の様なものとされていますが、自分はその余りの壮絶さに、違和感を持っていました。ナオ女史の産まれた地区は、犯罪者や身体に障害を持った人が多く産まれたらしいですが、神の降臨というよりも魔神の降臨と言った方が相応しいような生涯です。

 またお筆先の中には、非常に恐ろしい天変地異なのか、戦争なのか、大変な事が起こって来るぞ、と非常な勢いで警告を発しています。
 それを見て、中にはこれは大変だという事で、その予言を信じた人達も多く居ましたが、王仁三郎氏がその中にやって来て、脅迫的、脅しなどによって人に改心をせまる遣り方は、悪神の遣り方だとして反発をしていた様です。

 そう聴けば、成る程現在の多くの既成宗教は、多かれ少なかれ、この様な傾向が見られるのではないかと思います。この様な終末思想的なものが無い教団は、殆ど皆無と言っても良いと思いますが、金神のやり方も同じに見えます。

 また、お筆先に現れた国常立命、自称艮の金神とは、元来陰陽道でいえば恐ろしい祟り神で(現在でも家の建築、改築の際に丑寅の方角にトイレ等の水周りを配置するのは、家相が悪いという事で敬遠する人が多く居ます)キリスト教的に言えばさしずめ悪魔が改心を促すような、或る意味非常に希有な神示であると言えます。

 更には又、「出口家には代々、悪神の懸かる系統であるぞよ」という、自ら(艮の金神)の足元をすくう様な内容も書かれてあります。これを見る限りにおいて、既に迷宮に入ったかのような、昏迷状態になる訳です。
 確かに、お筆先の中に書かれた文章は「確かにそうだ」と思える事が多くある反面、王仁三郎氏が言うような事も、分かるような気がします。

大本神諭

●大本は善悪二つの世界の型を出すところ、他人には傷はつけられぬから、ナヲの血筋に悪の御役をさせるぞよ

 この筆先の後に、三女久に神懸かり現象が有り、王仁三郎氏排除の運動をはじめるのですが、元々三女の久は、王仁三郎氏とナオ女史を取り合わせるなど、普段は 正常な状態で、時折発狂現象が起きていた事をうかがわせます。

 艮の金神とは悪の仮面を被った、つまり敢えて悪役をしている神ではないかという解釈も出来ますが、何故敢えて間違った手本を示すのか、またどうしてそんなまだるっこしいやり方をするのか?という疑問が残ります。

出口家と九鬼家の深い因縁

 元々ナオ氏が産まれた綾部という所は、豊受大神を奉る比沼麻奈為神社が元々在ったと言われる所で、更に出口家は代々大工を生業としていた所から、藩主の九鬼家(九鬼文書を伝承する家柄)とも大工家業を通じて交流があり、出口家に何かの厄災があると、九鬼家の本興稲荷に参拝する事があったといい ます。

 九鬼文書に記された鬼門祝詞には、『宇志採羅根真(ウシトラコンシン)大神』という名前が出て来ますし、ナオ女史自身が、かつては熱心な金神教(大本と同じく金神を奉る)の 信者であったという事実から考えてみれば、何かしらナオ女史の潜在意識の中に、一つの金神というイメージが出来上がり、それが知らぬ間に表面に出てきて、艮の金神の筆先を書くように成ったのではないかとも、考えられます。

謹啓
 御懇篤なる尊書を賜わり有り難く御礼申し上げ奉り候。
大本教の神示については貴家と最も深き因縁これある様、故教祖(注:ナオ女史)より毎日聞き及び居り候得 者、何れ、機熟する時は、閣下の御世話様に頼らねば成 らぬ事之有り候に付き、向後宜敷く御願い申し上げ奉り候。
 申し上げたき事之山々有り候得共、赴神(注:神戸行き)の時に譲り申し候。早々

不備
九月十七日
子爵、九鬼隆治様
-『謎の九鬼文書』/佐治芳彦著:徳間書店より-

 上記は、王仁三郎氏が、九鬼家21代隆治(子爵)宛てに出した手紙です。つまり、九鬼家に出入りしたナオ氏は、自から九神家との因縁が深いと、連日のように語っていた様子が伺われます。実際に当時のの大本の神旗は、『九陽紋』と言われる、九鬼家の家紋と同一のものでもあるのです。(後に十陽紋になった)

 更に、九鬼神学秘法『鎮魂帰神法』が、大本で継承された点、王仁三郎氏が旧九鬼家邸跡地の綾部市上野小学校構内に、九鬼水軍の総師「九鬼嘉隆」氏の記念碑を立てようとした点、後の『九鬼文書の研究』を顕した三浦一郎氏を大本の最高顧問に招請する点、合気道の創始者で大本信徒であった植芝盛平氏の「私の武道は九鬼家神伝の武道である」という発言等、大本と九鬼家の関係は、案外深かった様です。

大本に降ろされたお筆先とは

 またナオ氏は元来は文字の読み書きが出来なかったのは、恐らく本当の事であって、当時の状況を考慮すると、学校等で読み書きの勉強をする事などは、到底かなわない事であります。また大人でさえも、無学文盲なのは珍しい事ではなったのですから、逆に少女時代から住み込み奉公で働く一方のナオ女史が、自我で神示を書いたというのは、少々無理があろうかと思われます。

 それでも全体を通じて見ると、善にも見え悪にも見える、何とも言えない内容であり、自ら陰陽道的に言えば最悪の祟り神を自称し、悪の血統云々を伝えつつも、善一筋の世に立て直すと宣言する、謎の多い金神様です。

 しかし、それが反って余りにも怪しいのであり、又筆先に書かれた事が、実際に現在の日本や世界に大きく反映している様子を見る限り、およそ人智を越えた、想像以上の影響力を持つ神にも見え、それが又こんな穴だらけの神示を書くのが妙でもあり、むしろ何かしらの秘密が内包されている、とも思えるのです。



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