・諸教同根
迷信の破壊・立て壊し
・神の計画
錦の機の仕組み / 世の
大峠 / 政治・経済 / 春の到来時期 / 神の
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赤心 / 人
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真理の普及 /
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・その他
啓示の解釈 /
霊界の実相 / 幽
体は複数ある? /
今までに、様々な事柄を見てきましたが、思いの外日本の神示と西洋のスピリチュアリズムに共通点があるので、驚いた人が居るかも知れません。
ここでは、そういった共通点を抜き出してみたいと思います。上記のメニューから様々な項目を表示する事ができます。
英語圏のものは、それぞれ翻訳家が異なる場合がある為、同じメッセンジャーでも異なる印象の場合がありますが、言葉の端はしに囚われず、内容そのものを
見て下さい。
その意味では、浅野和三郎氏が翻訳したものも、時代がかっていますから、何処となく大本神諭等と似た様な印象を受けるかも知れませんが、これも又言い回
しが似ているのではなくて、中身に共通性を見出してみて下さい。
大本神諭 |
●世界国々所々に、世の立て替へを知らす神柱は、 沢山あらはれるぞよ。皆艮の金神、国常立尊の仕組みで、世界へ知らして在るぞよ。 |
日月神示 |
●日本とにほんと取り違いすな。何事も神第一ぞ、神よそに
なすこと伝ふことスコタンばかりぢゃ。分け隔てあると思ふは我が心に分け隔てあるからぢゃぞ。世
界中のそれぞれの国皆氏神様、産土様いよいよ天の命令通りにかかり下されよ。 |
神示類には、あちこちに肉体を借りて、世の大峠を知らす者が出て来ると書かれてあります。
しかし、他の様々な神示の類いが総てそうだと言う訳では有りません。色々と偽物もあるでしょう。
しかし、冷静に考えてみて、少なくとも世界の各地に、同類のものが無ければ、これ又おかしいのです。
また永続性も無いと成らないでしょう。ある国のある地域で、決まった時期だけにポッと出たものは、余り信用が置けません。
そして恐らく、交霊会の様に直接的(?)に交流を持つのは、そう多くは無く、様々な人の口を借りたインスピレーションの形を取る等、様々なバリエーショ
ンが考えられます。
本来は、人間自らの努力と工夫で改善しなくては成らない為であり、また地上は本来の住処ではない、と確信するという事は、冒頭で喩えた様な「はじ めてのお使い」で、子供本人が、これはたった一人の冒険だ、とは考えず「これはただの撮影だ」と理解していたら訓練に成らなくなります。
しかし、そうは言っても、個々人がそれぞれ体験を通じた上でなくては、確信へと至らないでしょう。
誰もが、証拠や確証を得たくても、そう簡単ではないようです。従って、神示でも、自分の好きなようにやってみて得心改心結構、と記されています。
これから神示と霊訓に関する共通点を紹介して行きますが、中には驚く人がいるかも知れません。しかし、双方の矛盾点も紹介しないと公平ではないと思いま すので、こちらで紹介したいと思います。
シルバーバーチ |
・私達は罰をちらつかせて、人を脅すような事はし ない。皆さんに、怯懦(きょうだ)で卑劣な人間になってもらいたくないからだ。私達が願う所はただ一つ、人 間の内部には神性があるということ、これを皆さんに知って頂きたい。もしこれが理解できれば、人はいよいよ神性を発揮し、ますます進歩し、その心は智慧と 真理で、限りなく満ち溢れることになろう。 |
この言葉に集約されていますが、西側で興ったスピリチュアリズムでは、今後産みの苦しみがある。といった大まかな預言部分はあっても、天罰があるなどの 脅かし部分は無いのです。しかし、日本で降ろされた大本神諭や日月神示などには、「地震・カミナ リ、火の雨降らして洗濯」とか、「人三分の一になる」などの恐ろしい 預言部分があります。
もっとも日月神示には「神に怒りはないのであるぞ、天変地異を
神の怒りと取違ひ致してはならん。」という箇所もあり、こうした記述は象徴的に捉えた方が良いと思います。これは鞭と言ってよいかも知れま
せんが、飴の部分もあります。
これに関して、大本神諭にも同種のものがあり、王仁三郎氏の書き残した書類の中に、以下の記述があったようです。
出口王仁三郎 |
・世界中汝のものになるという曲津(まがつ)のたばかりことばを 真に受けて、し じゅうなぶられている山口のあか(※出口直女史の事)という人こそ気の毒の至りなり」 王仁はのがれぬ中ゆえ、どうぞしてその迷ひの目をさましてくれんと思へども、かれすでに心の中より曲津に化かされをるゆへに救ふのみちなし、アア (王仁三郎氏の書き残し)
|
大本神諭自体は膨大な量になりますので、恐らく中にはこういった内容が含まれていたと思います。「世界中汝のものになる」というのは、日月神示でいう「世界一切は自分のものぞ」という部分と同種のものではないかと考
えられます。
この様に、神示系は脅かしや甘い誘いと思えるような部分が見受けられます。現実に
いずれ来る苦難の時代について、「大峠(おおどうげ)」という表現を使っていますが、この大峠が天変地異や大戦争であり、世の終わりが来ると信じた人々が
騒いだ為に、逆に大本が弾圧を食らうという目に遭っています。
これは戦後興る宗教の中で、終末思想であったり、たばかり言葉で人を集めるといった、一見して似たような集団が色々発生してくるという型だったの
かも知れません。
元々大本神諭を伝えた艮の金神の筆自体に
大本神諭 |
●大本は善悪二つの世界の型を出すところ、他人には傷はつけられ ぬから、ナヲの血筋に悪の御役をさせるぞよ |
とあるのは、直女史の子供たちのことではなく、直女史自身も含めた意味だったのかも知れません。いづれにせよ、善と悪の両方を示すというのは神示系の大
きな特徴と言えます。
そして、人は出口直派であったり、王仁三郎派であったり、直女史の三女久派であったりと、思い思いの所へと派閥の様なものが出来上がったのです。
こうして見ると、何やら出口直女史の方がなにやら悪役であって、王仁三郎氏が善役のようにも見えます。こうした両者の葛藤は神諭にも表れています。
大本神諭 |
●いつも筆先で気を附けてあるが、大本は艮金神(うしとらのこん
じん)の筆先で世
を開くところであるから、余り霊学ばかりに凝ると筆
先が粗略(およそ)になりて、誠が却て解らんやうに成りて、神の神慮(きかん)に叶はんから、筆先を七分にして霊学を三分で開いて下され
よ。帰神(かんがかり)ばかりに凝ると、最初は人が珍らしがりて集りて来るなれど、余り碌な神は出て来んから、終ひには山子師、飯綱使、魔使と言はれて、
一代思はくは立たんぞよ。思はくが建たんばかりか、神の経綸(しぐみ)を取違ひ致す人民が出来て来て、此の誠の正味の教をワヤに致すから、永らく気を附け
て知らしたなれど、今に「霊学が結構じゃ、筆先ど
も何に成る」と申して、一寸も聞き入れぬが、ど
うしても聞かな聞くやうにして、改心さして見せるぞよ。神の申す事を叛いて、何なりと行りて見よれ、足元から鳥が飛つやうな吃驚が出て来るぞよ。世間から
は悪く申され、神には気障りと成るから、何も成就いたさずに大きな気の毒
が出来るのが見え透いているから、其れを見るのが可哀想なから、毎度出口の手で神が知らせば、「肉体で出口直が書くのじゃ」と申して御座るが、ここ暫く見
て居りたら解かりて来て、頭を逆様にして歩かんならん事が出来するぞよ。 |
また随分と激しい戦いようです。ところが、直女史の没後に王仁三郎氏の肉体を借りて自動書記を行なうようになった艮の金神は、再び似たようなことを述べ るようになりました。
伊都能売神諭 |
●明治二十五年からの筆先とこの大本の中にありた実地の談さえ致 して、天地の先祖の苦労やら変性男子が鑑に出した其の行状の有り様やら、女子の心の底にあ る炬火を世に現はして十分に立ち寄る人民の腹の底へ染み込むやうに平たう説いて聞かせる世界の大本であるのに学者が聞いても容易に判り かけの致さん言霊学やら哲学の如な話しをしておりては物事が段々遅れるばかりで、神界は返って迷惑を致しておるぞよ。 この大本は改心改心と一点張りに申す所で在るが、其の改心はどうしたら良いかと申せば、産まれ赤子の何も知らぬ天真爛漫の心に帰りて大馬鹿に成ると云ふ 事であるぞよ。今の金龍殿の先生は智者学者の集り会ひであるから、知らず知らずに自分の腹の中の智利や誤目が飛んで出て神と人とを酔(まよ)はして土を耳 や目や鼻に入れるからたまったもので無いぞよ。今の鼻高さんには神も感心致しておるぞよ。 |
個人的には、あたかも凄い神力があるかのように書いたり、天変地異や大戦があるかのように(これはある意味太平洋戦争で当たりましたが)説いたりとい う、そういった事柄を嫌う王仁三郎氏の考えの方が正しいように感じます。しかしながら、神がかりや霊学、言霊学、こういったものばかり凝って、筆先が疎か な状態で開いてはならない、という神諭の主張も理解できるのです。
つまり、単純にどちらか片方が悪役で、片方が善役という様に、単純に分けられないところがあります。
そして王仁三郎氏も何処までが本気だったのか、分からない所があります。そもそもそれほど嫌う筆先であっても、(漢字は外来文字だからと)反対する幹部
をしり目に、平仮名ばかりの筆先を、漢字を書いて読みやすくしたのが王仁三郎氏自身です。
その王仁三郎氏の著作「筆の滴(二十二丁目)」には、表面上の内容は以下の様になっています。
出口王仁三郎 |
「…鬼でも往生させる力あるように見えて、真実は 力もなきなり。天命を燒むものなり。大和魂を荒控えるような、真実の誓いを立てて誑かすなり。楽しみを前に並べて、魔道へ、誘いゆくなり。手柄をさしてや ろうと申して、近欲に釣るなり。百千万の曲津神、次第に集い来るなり。天下太平を称うなり。神の真似をい たすものなり。悪事災難がなぞが来るぞと人を脅すなり…」 -『筆の滴(二十二丁目)』/出口王仁三郎-
|
これはどうも、大本神諭を彷彿とさせます。少なくとも、大本内部の人は何か一般的な偽神がかり、似非通信のことでは無く、出口直女史の筆先のことだと
思ったのではないでしょうか?
しかし、この縦書きの文章の行頭だけを横に読んで行くと、別の文章が浮かぶようになっています。
出口王仁三郎 |
・上田茂穎(王仁三郎氏の事)は、お筆先の世の立替えを信じて、
家や田地を売り
て、後で困窮するのを見るが辛さに、三十五年の正月から心を決めて、普通の神道に身をゆだねて、人の目を醒まして助けてやろうと思うたら、あべこべに吾の
方を悪にしてしもうて、益々頑なりてしもうて、また家や田地を売る者出けてき
た。 (筆の滴(二十二丁目)の行頭を横に読んだもの)
|
王仁三郎氏自身、建て替えの仕組み(大峠)のことを理解していたと読めます。表向きは敵対していていて、内面では理解していたのか、それとも余り
に性急に信じ込んでしまう人達が多い為に、反対していたのか、その事情は分かりませんが、明らかに表向きとは違う何かを知っていた節があります。
それにしても、何故ここまで込み入ったことをする必要があったのかは分かりません。日月神示にも偽の神がある、善と悪と二つあって、この見分け中々ざぞ。という箇所がありますが、余程注意し て判断(自己の内面も含めて)しないと、本当の善と悪が分からない、という意味かも知れません。
とにかく、これは本物か?偽物か?という疑念が容易に晴れずに、深く知るほどに余計に分からなくなる程込み入ったものであるのは確かです。