これまでに気付いたことで、まだ未記入なものや、冗長になるために省かれたものなどを、覚え書きとしてまとめたいと思います。
更に自分なりにこれまでに紹介した情報の中から、スピリチュアリズムの観点からみて、基本的であり、総ての人の目標でもある、霊性進化に関する部分は、
自分なりに消化した分を、自分の言葉で表現して行こうと思います。
※従って、霊性の向上だとか、進化といった側面に関しては、余り引用はしない方針です。
先ずは10年ほど前に、同じようなサイトを運営していたのですが、その切っ掛けは大本の筆先や日月神示と出会ってから、その意味を探るうちに、余りにも
多くの事柄と繋がったというのがあります。
このサイトを見れば分かるように、多くの分野と関連性が出てきて、その際に実感したのは「大本」というのは、文字通りに”おおもと”になっている、とい
う点です。
それまでは霊的な事柄一つ取っても、人によって守護霊がいるとか居ないとか、先祖がなるとかならないとか、菩薩界だとか第一天国だとか、様々な言 い方をするので、どれ一つとっても、今一つ腑に落ちないので、実は半信半疑の時期が長くありました。
それが、上記(特に日月神示)を知ってから、西洋のスピリチュアリズム、哲学、科学、東西の古代史やら元始の宗教まで、様々な分野と関連性を見い
だせたので内心驚きました。
それが今改めてサイトを開こうと思って新たに構築している間にも、新たな関連性ある情報を次々に発見できました。
多分、一つの竜頭を掴んだら、後は総て現れの側面、枝葉に過ぎないのかも知れないので、当然のことかも知れないですが、やはり驚いてしまいます。
恐らくはこれからも、色々な事柄に触れて行くことがあると思いますが、その都度HPを更新して行きたいと思います。
日月神示にもよく大我に溶けいれよ、という言葉がでてきますが、霊的な観点からすると、全員が繋がっています。
深層心理では、人類は皆共通の目的を持っていると言います。深層心理下では人類共通の集合的無意識でつながっていると言いますが、案外誰も不思議な事だ
とは思わ
ないようです。
これは「〇〇学」のように学という名が付くと、それは難解なもので専門家が研究する分野であり、それ以外の人はただその研究成果を信じればよい、
という認
識があるのだと思います。
素人が専門家の話をおかしいと考えるのは滅相も無い、と思えますが、人は無意識下でつながっているのなら、その媒介となるものは何かあるのでは無いだろ
うかと思います。
これが同じ目に見えない事でも、霊的な話になると途端に怪しい話になってしまう傾向があります。
人は蒸気機関の時代に「電気」の話をすれば、きっと「この馬無しの馬車が走る時代に、何をおか
しな事を言ってるんだ、電気とやらがあるなら目の前に出して見せてくれ」と言い出す人がいたでしょう。
電波を利用すれば、遠く離れた人とも、地球の裏側の人とさえも話ができる。と言えば到底信じてもらえなかったでしょうが、それと同じことが言えま
す。
人は紫外線など可視光線の他にある電磁波を信じています。それは電気製品などで何らかの効果を経験しているか、科学的に確認された、というもの等は信じ
のです。
しかし、科学的に確認できない素粒子以下のものは、当然物的な証拠は見つからないでしょう。
これは理論物理学者が計算で証明する時代が来るかも知れませんが、それ以外に素人ができる確認方法は、霊的な真理は時代も地域や国、民族の別なく働いて
いるので、その働きを考察・観察することしか無いように思います。
上記で述べたように、スピリチュアリズムの観点からすると、人は皆つながっています。丁度、肉体の家族は肉体的に、遺伝子的につながっているのと同じで、
霊的には全ての存在がつながっています。
肉体という個別の表現形態を纏うことで、そういった意識から離れてしまいますが、自我を表現しつつも、大我に溶け入る、神に溶け入るということが重要な
様に思われます。
哲学者が言う「潜勢力」や「内なる力」も高級霊が伝える「内在の天国」「内在の神」を掘り出すことで得られるものも、同じことを違う言葉で表現し たものだと考えられますが、この状態になって日月神示で言う「岩戸が開かれた」状態になるのではないでしょうか
大峠を越す為に「岩戸開き」が重要だとされていますが、これは「大工は大工の岩戸、左官は左官の岩戸がある」「それぞれに岩戸を開いてくれ」とい う言葉がありますが、人類全体として言えば、正しい真の意味での真理を開く、という意味に取れますが、個人個人にも各自が岩戸を開く必要があります。
天照大神が岩戸に隠れた際、キリストが処刑後に岩穴に安置された際に、世の中が暗くなったという伝承は、真理が隠されてしまった、というように解
釈できます。
従って、これまで隠された真理、更には人類の進歩に合わせたより昇華した形での真理を発見する必要があると思います。
内在の神と溶け入る状態は、生き方も考え方も、人生で起こる様々な出来事もそれまでとは違ってきます。
その状態で強固に結びついたまま、というのは難しいことですが、その一端を垣間見ることは、それ程難しいことではないと思います。
しかし、神示に書かれた事柄を盲目的に、或いは一生懸命(?)信じたとて、それですぐに変わるわけではなく、自分自身が変わらないとならないので
す。
これは信じるとかいうレベルの話ではなく、本性が変わる必要があるので、それこそ1枚1枚薄皮を剥がすように進むしかありません。要するに誤魔化しが効
かない、本当の意味で変わらないと変化は期待できない、ということになるでしょう。
その意味では、『神示と霊訓』や『神示と哲学』が一番苦しかった部分です。王仁三郎氏を始めとする大本系の著作物の多 くは著作権フリーなのでいいですが、他のものは一応引用だけ垂れ流すというのもなんだか、と思い解説らしきものを加えていますが(本当は原典にあたって、 そこから自分なりに消化するのが良いと思います)
すると、霊訓などは人は地上においても神のように生きられる(これも大我に溶け入り、岩戸が開かれた状態でしょう)とするので、このくらいで良い でしょう、というボーダーラインが無く、あくまで理想を説いています。
それを勝手にボーダーラインを下げる訳にも行かず、その理想を基に解説する訳だから、自分の現在のレベルと鑑みて、苦しいのです。
これがまた、心と言葉と行いが一致してない状態でもあるので、解説(言葉)だけ良くて他が追いついて来ないのではまづいと思った訳です。
上記の様に偽装ではなく、本質が変わらない限り何も変わらないと認識しているので、パラドックスが生じるのですが、完全無欠は永遠に不可能なの で、結局『神示と預言』にあるような、共に進みましょうという流れしか無いでしょう。