価値観の転換

上下さかさま

 前節で価値観の転換について述べましたが、実際の話し、霊的真理を知るのと知らないのとでは、大きな違いが生じます。
 そして霊訓でも神示でも、人間の視点と霊的な視点はさかさま、あべこべであると主張しています。

日月神示

●逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、そんなこと長う続かんぞ。あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな。上にいては足も苦しかろうがな。上下逆さまと申してあるが、これでよく分かるであろう。足はやはり下の方が気楽ぞ。
 あたま上でないと逆さに見えて、苦しくて逆さまばかりうつるぞ。この道理わかりたか。岩戸開くとは元の姿に戻すことぞ。神の姿に返すことぞ。

シルバーバーチ

・なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。

 霊的真理を理解するということは、この世にある苦難や悲劇、才能の有る無しなど、一見不平等にみえること等、様々な疑問に対しての解答を得ることにつながりますが、それとて得心するのは簡単では無いでしょう。

 「ああそうか、なるほど」で済んでしまっては、中々魂からの理解、ひいては向上につながらないからです。
 理解した上でも様々な誘惑や試し(※1)や試練に遭うことで、少しずつ鍛えられていくしかないようです。

 例えば前述の「不安や恐怖」といった感情を捨てることも、なるほど確かに霊的世界から人間は導かれている、目には見えないが偶然と思えることや、ふとよぎるインスピレーションなどで導かれている。
 そう考えれば、確かに余計な不安や心配を抱く必要が無いのですが、それは真に全幅の信頼を寄せて、完全なまでに理解を深めないと難しいでしょう。

 これは、いわば修羅場をくぐらないと難しいのです。それと、上記引用にあるように、霊的な視点と物的な視点ではアベコベであることが多いのです。
 これは大人と子供の視点と言えるかも知れません。子供にとって、何でも言う事を聞いてくれる、何でも買い与えてくれる親は羨ましい限りですが、大人の視点からすると、このままでは、自己中心的で自制心の無い大人になってしまう、と案じてしまいます。

 高級霊が地上の人間を導くのも、こうした大人の視点からであることに留意して下さい。だからこそ、願い事のお祈りや、ご利益信仰が何の効能も無いのです。
 (心霊治療などもありますが、これは治るだけの段階に達した患者でないと治らないようです)
 別に何もしないのではなくて、医師であれ建築家であれ、世の中に貢献したいという願いを持つ人には、同種の思いに駆られた霊が導いてくれると言います。

 また、何か言われのない攻撃を受けても、地上的な視点からすれば”嫌なやつ”となりますが、霊的な視点からすると、相手の持つ負のカルマを、攻撃する相手がその分だけ持って行ってくれるのです。
 攻撃相手は、その分だけ負のカルマを自分に背負うことになります。

 これは言わば、わが身を犠牲にして、相手をより身軽にしてくれるという、自己犠牲の人なのです。
 (もっとも、負のカルマを耐え忍ぶような解消よりは、自ら何か社会に貢献することでプラスの種まきをする、積極的な解消の方がより良いことは確かです)

 霊的な尺度と物的な尺度は逆さまが多い、高級霊の視点と地上の視点は大人と子供の視点という点からすると、地上でも大人は子供の世話で手を焼くことが多いですが、その代りに親も強くなることが出来ます。

 また、自分が親になって初めて親の苦労が分かったと、かつての自分を振り返ることも出来ますが、地上のまだ成熟していない魂は、駄々っ子でもあり、依存的でもあり、地上の段階の進んだ魂にも様々な苦労をかける事があり(相似形)ますが、しかしそのお蔭でより進歩することも出来るという訳です。

※1 これは私事なので、普遍的にいえるものか分かりませんが、「よし今日はずっと相手に親切にしよう」とか「今日は何があっても感情を高ぶらせないでいよう」とか、何かしらの目標を設定すると、すごい高確率でそうした決意が崩れるような体験をします。
 霊的真理に基づいて、自分で個人的に立てた目標なので、何も相手から感謝されたりの見返りを求めている訳ではないのですが、霊的真理に対する信頼(自分の内側が変わることで周囲が変わるなど)が崩れそうになったことがありますが、時を置いてみると、ひょっとするとその決意やら理解やらが本物なのか、試されていたのではないか?と考えるようになりました。


信じる

 理性的に考えても納得のいく事の多い”霊的真理”ですが、それだけに「当たり前」と思えるようなことも多いのです。従って何か地上の人間には誰も知らないような、未だかつて人類にもたらされていない秘匿物のようなものではなく、誰もが本能的に持っているもののように感じます。

 例えば「人が喜んでいる姿を見るのが嬉しい」という感情や、どこまでも深く人類未踏の深海の底まで、天高く宇宙にまで進出するのも、どこまでも追求したい、という神性のもつ側面のようです。(※2)
 あるいは、マンガ、小説、ドラマ、映画などで表現される主人公像は、癖のあるキャラクターもありますが、まず嫌な感じを持つ主人公はいません。

 大概は不利な状況から、様々な経験を通して、色々な苦難を乗り越えて成長していく姿が描かれるでしょう。
 危機一髪のような状況であったり、万事休すと思えるような事態に陥ったりしながらも、何とか通り抜けながらです。

 恐らくは本能的に、”霊的真理”を人間は魂の奥にしまいこんでいるのです。しかし、それよりも強く物的観点がじゃまをするので、清々しくて筋が通った主人公に憧れつつ、実生活では、わざわざ時代劇の悪代官や悪商人のようなキャラクターを、自分の方から選択してしまいます。

 その他「何か人の役に立つことがしたい」と感じている人も多いでしょう。そうした神性を発揮する場面もあれば、損得勘定などによって視点を狂わされる場合もあるのです。
 霊的真理を抜きにしても、穏やかで誠実さを持つ人物なら、人は頼りにするし、とにかく周囲の環境や他人への批判ばかりで、自らを振り返ることが全く無い人物は敬遠されます。
 せめて「言うだけのことはある」という自ら率先するような、言動の一致した人物なら説得力を持ちます。少なくとも言葉と行動が一致しているからで、更に心が一致していれば、やがてボロが出るということも無いでしょう。

 その他もろもろ、我々でも納得できるものは多くあるのですが、問題は霊的な部分で、これは証明が出来ないですから、何処かで「信じる」という部分が出てきます。
 証明できたら信じるというのも、極めて現実的な対処で否定はしませんが、信じるという部分が無いと「全幅の信頼」も不可能なわけです。

シルバーバーチ

・地上の如何なる賢人も、問題の総てに対する回答を手にすることは出来ません。三次元の世界に閉じ込められている以上、叡智の総てを手にすることは不可能なのです。その三次元の殻を破らないことには悟れないことがあるのです。そこに”信じる”ことの必要性が生じるわけです。

・私の好きな諺がバイブルの中にあります。“信仰に知識を加えよ”というのですが、私はこれを“知識を得たらそれに信仰を加味せよ”と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。人生の嵐に抵抗し、何が起きようと盤石不動であるためにはその土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅することはできません。その足らざる部分は“信仰心で補いなさい”と私は言うのです。

 実は高級霊もそれまでの道のりで、多くの知識を学び取り、更にはその働きも見てきたので、その神法の完璧さに驚嘆すると言います。しかし、そこまで行っても尚全知識を得ることは不可能な様です。
 高級霊でも得ることのできない全叡智でも、我々よりもずっと霊的真理に対して全幅の信頼を寄せているのは、それまでに経た長い道程があるからです。

 我々も、仮に知人が長く付き合った上で信頼するA氏を、「この人は信頼できるから」と紹介されても、A氏に対してその知人ほどの信頼を直ぐには持てないでしょう。
 ただ、その知人をあなたが信頼していた場合、この人が言うなら…とA氏への信頼もずっと早くなります。それと同じで霊的真理も長く付き合う必要があると同時に、その霊的真理を伝えたいと思う人は信頼するに足る人物になる必要があります。

 『神示と哲学』で紹介した哲学者たちは、多くの面でスピリチュアリズムと符合するものがある人達ばかりですが、そうした彼らの思想に共鳴したり、学んだりして多くの大人物が輩出しているのは確かです。

 結局のところ、先ずは理性的に受け入れられる部分を実践し、やがて徐々に変化を来す状況を見るなどの、体験を通して深めて行くしか方法は無いでしょう。
 そして、書物などで得たものではない、自分自身の体験ですから、先へ行くほどに確信へと深まって行くのではないかと思います。


※2 ただ人間は勘違いして誤った方向へ行ってしまう事も多く、例えばインドで苦行する修行僧などは、何十年も片腕を上げていたり、片足で過ごしたりしていますが、これは苦難を人間的成長の糧と捉えているのでしょうが、スピリチュアリズム的に見て間違いです。

 例えば、親から「苦労は買ってでもしろ」と言われて「なるほどそうだな」と納得した長男が、それきり部屋にこもって食事の時間になっても出てこない、どうしたのかと見てみると、あれからずっと逆立ちしていた。みたいなものです。

 また、子供のヒーローものや時代劇ものは、バッタバッタと悪役を倒して行きますが、これも間違いです。
 パット見は威勢がよくて勧善懲悪なので、スッキリするようですが、今や国家間の問題でも、完全ではないですが、なるべくは武力衝突を避けて対話で解決しようと試みられています。


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