霊主体従vs体主霊従

二律背反する働き

   これまで、様々に疑問点が現れてきました。一方では体主霊従(唯物主義、物質万能主義)を推し進めるイシヤ(フリーメーソン)と、それと正反対の霊主体 従 (霊・精神を主として、体・物質を従とする)の神示群。

 これら背反する勢力の働きかけとなる力は、同一のものから出ていると受け取れる点です。
 それは、日之出神の働きにも現れていて、矢野祐太郎氏の研究で、外国でユダヤ人を霊的に操作し、また大本では救世主的な役割があると、考えられていまし た。
 一般に大本では、「大門」の経綸は悪神の経綸と考えられていて、その為大門出身の祐太郎氏の研究は大本では恐らく、まともに取り合わなかったであろうと 思われます。

 王仁三郎氏の行動も、イシヤのそれと思しき事柄があります。それは、王仁三郎氏はその活動の一環として、「映画」・「音楽」・「新聞」などの活動 を盛んに行っていたというものです。
 新聞活動などは前述の通りで、更には青年部の中に音楽部を設立、SP盤の吹き込みや音楽活動、果ては亀岡の旧城跡にて、当時の人気スターを遊ばせてみた り、青年会に映画班を三十六班、地方組織にも二十班を設置するなど、その宣伝活動は多岐に渡っています。

 これは一方では、ヒトラー率いるナチスのプロパガンダ作戦を彷彿とさせますが、また一方でシオンの議定書に描かれた3S(スポーツ・スクリーン・ セックス)という、非ユダヤ人を隷属化する為の作戦というのがあります。

 ちなみに八幡書店から、「昭和の七福神」という映画がビデオ化されています。また「霊界物語」の「天祥地瑞」を脚色した神聖神劇は、アンナ・パブ ロア(ロシアのバレリーナ)に大きな影響を与えるなど、その方面での王仁三郎氏の才能は、なかなかのものであった様です。

石屋の仕組み

 再びシオンの議定書です。

・思想を愚鈍化させる事は、既に「視覚教育」と称 する方法で実行に移されているが、視覚教育の主たる使命は「非ユダヤ人」を思考力の 無い従順な獣と化し、絵に描いて見せなくては物を理解する事の出来ない様な、愚鈍な動物にする事である。
 彼らが自分で何かを考案せぬように、我々は享楽や、遊戯や、音楽や、性欲や、民衆倶楽部等の方面をあおって誘導しなければならない。これに よって、大衆の頭をその方へ外れさせねばならぬ。
 尚、やがて新聞の力により、芸術や各種のスポーツによる競争を提議するつもりである。これらの興味は、我々が非ユダヤ人と戦わねばならぬ諸 問題から、彼らを牽制(けんせい)する。

・かくて段々独創的思索の習慣を離れた世人は、我々に共鳴する事になる。如何ともなれば、我々のみ新思潮の扇動者(せんどう しゃ)となるからである。
 現代の各国家の手中には、民間思想の動向を創造する一大勢力がある。これは即ち、新聞雑誌である。新聞雑誌の役割は、国民の要求を指示し、世論の声を伝 え、不平不満を発表し、且つこれを創造するにある。

・言論の自由の勝利は、新聞雑誌に胚胎(はいたい)する。新聞を我々は、次の如く取り扱う。目下新聞は如何なる役目をしているかと言うに、我々の目的に必 要な様に「世人の欲望を興奮させる」か、または「我利的 党派心」を助長せしめているだけで、新聞は「空漠・虚偽・不公平」なものである。

・言論機関における如何なる報道も、書籍の内容も、我々の検問を経ないでは絶対公表を許さない。この事はある程度まで現在においても実行され てはいるが、その方法として、全世界の各地からのニュースを、少数の通信社に集め、そこで手を加え、それから諸方面に配布しているので、この通信社もやが て我々の掌中 に収められるようになるであろう。

 まるで日本を指しているかの様ですが、各配信社や映画関係、音楽関係と多くの分野にユダヤ系とされる人物がいるとされています。(アシュケナージ 系であったり、ユダヤ教徒であればユダヤ人と名 乗れる様ですから、厳密にユダヤ系であるという確証はありません)  

 ただし、怒り・不平不満・不安を煽るというのは、その方が注意を引ける為(売上に関わる)で、何も何 処からかそういった指令が出ている訳ではないでしょう。
 近年では本当に手の込んだ描写や字幕スーパー等で、見る人の想像力が失われるという話を聞きますが、これも前述したような、行き過ぎたサービスの一つで はないかと思います。

伊都能売神諭

●善言美辞を用ふて、天地の神様と人民の心を和ら げん事には、何時までも天災地変が納まるという事はないぞよ。
 今の人民は一 人も善言美辞を使ふ者が無いばかりか、日夜に人の悪口ばかり申して喜び勇み、何ぞ悪事醜行が新聞にでも出てはいんかと、そればかり待ちている曇りた人民ば かりで、外国人 よりも精神が悪く汚れているから・・・

 上記にあるように、需要があるから供給があるので、殊更スキャンダルや醜聞に興味を持たずに、もう少し益のあることに関心を向ければ、自然に無くなる問 題です。
 従って、これはある意味社会全体の責任とも言えると思います。また、善言美辞と言っても、心・言・行が一致していないと、単なるキレイごとになってしま うので、効果は無いでしょう。
 結局の所、神示や霊訓で説かれていることは、要約してしまうと、王道は無いということです。これはある意味、厳しい様で当たり前の様な話ですが。

日月神示

●神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行 く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、○に・の神の薬のやり方悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれ ど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ

…(中略)…

 三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあ るぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力 生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。一方の3Sより判らんか ら、人民何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知 らしてあろがな

 日月神示にも、○に・ の神の薬のやり方、悪の神の薬のやり方、三エスの神宝と3Sの神宝というものが出てきます。
 しかし、5:5ではならない、4:6、6:4と均衡が崩れないとならないとしています。

 後述しますが、悪を排除するのではなく悪抱きまいらせる、という言葉がよく登場して来ますが、悪は御用の悪として有用扱いしているのです。
 これは人類の歴史を見ると、善と悪の戦いの歴史ということがインペレーターの霊訓にも登場しますが、悪が強くなる時には善が活動し、善が強くなる時期に は悪が活動する、というパラドックスが含まれている気がします。

 戦時中なら平和を求め、平和になると平和ボケ、と言われるようなものです。この混沌さが、性善説や性悪説を産み、また神が完全であるならば、人間 を完全なものとして創造する筈だから、その存在を信じることは出来ない、という状況を産んできたのです。

インペレーターの霊訓

・今まさに、新しい真理の普及のための特別の努力が払われつつあ る所です。神の使徒による働きかけです。それが敵対者の大群によるかつて無い抵抗に遭遇して おります。世界の歴史は常に善と悪との闘争の物語りでした。一方に神と善、もう一方に無知と悪徳と邪悪-霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪です。

・そなたが耳にした事は、これより後も続く、永くかつ厳しい戦いのささやき程度に過ぎません。善と悪との闘いは、時を隔てて繰り返し起きるものです。霊眼 をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されてきたことが判ります。

 上記引用は、1873年にインベレーターと称する古代の霊が、その後数十年に渡り、牧師モーゼスに降臨して語ったものと、言われています。

 霊界という所は善は善、悪は悪という同気相引き合う所なので、善のみ、 悪のみという世界で、地上の特徴の一つには、善と悪が同じ生活の場に、ごちゃ混ぜに存在するという点です。

 同じレベルの人ばかりではなく、あらゆる個性が混じるので、他人がある時は反面教師、またある時はお手本になる等、様々な体験をする事が可能であ り、またその為に地上へ転生するという訳です。

同じ名の神

 日月神示には、この矛盾性についての言及であるのか、他に意味があるのか以下のような一節があります。

日月神示

●同じ名の神二つあると申してあろ、同じ悪にもまた二つあるの ぢゃ。このこと神界の火水(ひみつ)ぞ。この事判ると仕組み段々と解けてくるのざぞ。鍵ざ ぞ。

●同じ名の神二柱あるのざぞ。善と悪ざぞ。この見分けなかなかざぞ。神示読めば見分けられる様に、よく細かに解いてあるのざぞ、善と悪と間違ひ申している と、くどう気付けてあろうがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ。名同じでも裏表ざぞ、裏、表と思うなよ。頭と尻違ふのざぞ。

 これと同じ意味であるのかどうか、解らないのですが、「霊界物語」を読んだ折に、「八頭八王」(やつがしらやつおう)の神将と、「八頭八尾」(や つがしらやつを)の悪神が出て来る部分で、なんだか名前が似ているなぁ、と感じた事があります。

 また日月神示に「この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔と も現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪も無いのざぞ、審判 (さばき)の時来ているにキづかぬか、その日その時さばかれているのざぞ」という個所もあります。

 また「釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキ リスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。」という箇所もありますが、これは明らかに、人間が余分な猥雑物 を加 えておかしくしてしまった宗教を示していると思います。

 これは霊訓にもあるのですが、人間が組織の存続や拡大を意図して、キリストが述べた事とは似ても似つかない教義をこしらえて、それにがんじがらめになっ てしまった霊というのが沢山いるそうです。
 具体的には、聖水をかけると祝福を受けるとか、懺悔をすれば罪が許される、キリスト教を信仰しない者は、死後永遠の地獄に落とされる等で、これは高級霊 (?)に言わせると、何の根拠もない様です。

ヨハネの黙示録に登場する獣

 ヨハネの黙示録には、サタンである龍と、豹に似た獣、子羊の様な角の生えた獣が出てきます。これは一見すると、大本系神書の、八頭八尾大蛇(ヤマタ オロチ)、金毛九尾の悪狐、邪鬼と似ています。
 そしてまた、龍体の神アシュトラ神、或いは日の大神、牛の様な角のバール神、或いは牛頭天王(素盞嗚尊)とも似ています。そして、それ等獣達は

・そして彼は、聖徒に戦いを挑んでこれに勝つ事が許され、さら に、総ての部族・民族・国語・国民を支配する権威を与えられた。地に住む 者で、ほふられた子羊の命の書に、その名を記されていない者は皆、この獣を拝むであろう。耳のある者は、聞くがよい。虜(とりこ)になるべき者は、虜に なっていく。剣で殺す者は、自らも剣で殺されねばならない。ここに、聖徒達の忍耐と信仰がある。

・・・(中略)・・・

 また小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧し き者にも、自由人にも、奴隷にも、総ての人々に、その右手或いは額に刻印を押させ、この刻印の無 い者は皆、物を買う事も売る事も出来ないようにした。

-『旧約聖書(ヨハネの黙示録)』-

 という個所が有ります。これら黙示をヨハネに与えた存在というのが、「口から鋭いもろ刃の剣が突き出ている」存在であるという事で、妙に違和感のある記 述が多いのです。

 ただ、現代社会を見てみると、簡単に言えばスピリチュアリズムで求められる姿を実現しようとすると、極めて困難であったり、不利であったりする点 では、同様です。
 上記に「ここに、聖徒達の忍耐と信仰がある」という箇 所に要点があると感じます。
 朱に交わって赤くなるのは非常に簡単ですが、赤くならずに、更には周囲を白くして行くともなると、並大抵では無いからです。

「勝利を得る者、わたしの技を最後まで持ち続ける 者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄の杖を持って、丁度土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。
 それは私自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。私はまた、彼に「明けの明星」を与える。耳のある者は、御魂が諸教会に言う事を聞くがよい」

-『旧約聖書(ヨハネの黙示録)』-

 上記は、サタンの妨害に負けずに、最後までキリストの技を見失わなかった者に、諸国民を治める権威と、明けの明星を与え る。というものです。
 以前に書いたように、明けの明星は、天界一の天使「ルシファー」、つまりサタンを意味するのですが、ここは不思議な部分です。

 更にシュメール文明の項で紹介した様に、666の獣とは 7つの頭と首 を持ち、鉄の杖を持った人の子が出てきますが、スサノオ命が八頭の八又大蛇を退治して草薙の剣を手に入れる様子に似ています。

 もっとも、これは話のプロットがそっくりなシュメール神話の方が取り込まれたのでしょう。
 元来古今東西の神話が織り込まれているので、話が無茶苦茶になってしまったのか、ただの偶然なのかは分かりません。



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